稲村の火
明治36年(1903)
浜口担という一人の青年がロンドンのThe Japan Society(日本協会)に招かれ「日本歴史上の顕著なる婦人」という題で講演をしました。
ケンブリッジ大学で7年間も学んできた彼は流暢な英語で話をして講演は無事に終了。
そして、講演後の質疑応答の時間が終ろうとした時、一人の婦人が立ち上がって、彼に次のように尋ねました。
「皆さんの中には、ラフカディオ・ハーンが書いた『生神様』と題する物語を読んだ方もおられるでしょう。
私は、それを読んで、津波から村人の命を救った浜口五兵衛という人の智恵と勇気に深い感銘を受けました。
あなたは浜口というラストネームですが、何かつながりがおありでしょうか?」
と
それを聞いた瞬間、彼は胸が一杯になり言葉を発せなくなりました。
そんな彼の様子を司会者が訝しんで近づき、何かを小声で問い質し頷くと、担に代わって次のように言いました。
「今夜の講師、濱口担氏こそ正しくハーンの物語の主人公、濱口五兵衛の御子息なのであります。お二人は父子であられるのであります」
それを聴いた瞬間、会場は拍手と歓声があふれ出しました。
異国の地で思いがけず、自分の父親が讃えられた担は感動で胸が一杯になったのでした。
ラフカディオ・ハーンの書いた小説『生神様』として世界に紹介され、また戦前の尋常小学校の教科書に『稲村の火』という題で載っていた濱口五兵衛こと濱口儀兵衛(梧陵)の話は、かつて話題になった事もあり、知っている人も少なくないかと思います。
ですがが、知らない人もいると思うので、『生神様』の話を簡単に紹介します。
安政元年
紀伊半島を地震が襲った時、村の高台に住む庄屋の五兵衛は、地震の揺れを感じた後、海水が沖に退くのを見て大津波の来襲に気付きました。
しかし、下の村で祭りの準備に心を奪われている村民達は津波の事に気づいていません。
そこで、五兵衛は、村人を助けるために、庭に置いてあった収穫した一年分の稲むら(刈り取りした稲の束のこと)に火をつけました。
すると、それをみた村人全員が火事だと思い庄屋の家に集まり、村人は津波から救われました。
そして、全財産を燃やして村人を助けた五兵衛を村人は浜口大明神と呼び神社を建てて礼讃を捧げましたとさ。
という話です。
この八雲の小説を読み、感銘を受けた地元湯浅町出身の小学校教員、中井常蔵が児童向けに翻訳・再構成したものが、『稲村の火』で、これが戦前の国語教材として採用され教科書に載ったのでした。
教科書に載ったものと小泉八雲作品との大きな違いはラストの神様と呼ばれたところからの話がカットされたことです。
ところで、この話を聞いたほとんどの人が実話だと思っているのですが、実際には、けっこう違っていたりします。
まず、大きな違いは小泉八雲の「生神様」の主人公の高台に住む濱口五兵衛は、庄屋の老人ですが、
実際の彼は、本名は濱口梧陵(はまぐち ごりょう)、現・ヤマサ醤油の当主で七代目濱口儀兵衛を名乗っており、当時は35歳でした。
では、実際の稲村の火はどうだったのかというと、次のような話になります。
安政元年(1854年)12月23日午前10時時、後の世に安政東海地震と呼ばれる巨大地震が発生。
被害は、関東地方から近畿地方に及び、特に沼津から伊勢湾岸沿い及び甲府盆地が甚大な被害を与え、全国で2000~3000人の人が亡くなりました。
この時、生まれ故郷の紀伊半島の広村(現在の広川町)に帰郷していた濱口梧陵は、大地震の後に、度々津波が起きるという言い伝えがあったので、村人を広八幡神社に避難させました。
しかし、何事もなかったので翌日には村民は家に戻っていきました。
ところが翌日の昼過ぎに、村人から
「井戸の水が少なくなっている」
と聞かされた梧陵は、
「再び異変が起きるのでは」
と恐れていると
夕方の4時頃に、後に安政南海地震と呼ばれる大地震が起きると共に津波が発生しました。
梧陵は、自分も津波のまれそうになりながらも人々を八幡神社へ避難するように誘導しました。
そして、日が暮れた後、逃げ遅れた人たちを誘導するために、梧陵は路傍の稲むら(脱穀を終えた藁の山)に火をつけて道しるべにした結果、村人の9割の命は救われたのでした。
この人々の道しるべとなった稲村の火は、この日最後に襲来した4度目の津波が全て流し去りました。
こうして見ると八雲の話と実際の出来事ではかなり話が違っていますね。
八雲の『生神様』を翻訳・再構築した中井常蔵は地元出身なので、八雲の話が事実と違うことを当然、知っていましたし、国定教科書採用時にも、「稲村の火」が事実と違う事は認識されていました。
けれども、五兵衛の犠牲的精神という主題と文章の美しさから、安政南海地震津波の記録としての正確性よりも文章の美しさと教材としての感銘が優先され採用されたのでした。
そして、村人が救われた所で終る稲村の火には、実は続きがあるのです。
地震の後に大事なのは村民の暮らしを元に戻すこと。
彼はまず、食料を確保するために備蓄米を出し、地元の有志の食料を援助とあわせて260俵、銀840貫を拠出しました。
そして、被災した人たちのために小屋を立て、農民や漁師のために、農具、漁船、漁網を提供し、人々が元の暮らしに戻れるよう尽力しました。
同時に梧陵は、村を津波から守るために自費で4年かけて長さ650m余り、高さ約5mの防波堤を造りました。
また村の広橋も破損していたので橋も修復しました。
彼が村の復興のために出した総額は実に4665両に上ると言われ、村人は彼を尊敬し、浜口大明神として祭り上げようとしたが、彼は堅く固辞したそうです。
村のために、これだけ尽くした梧陵を小泉八雲が「生神様」と評したのも頷けますね。
私心なく見返りを求めず人々のために尽くした浜口梧陵。
こういう人が、いつの世でもリーダーとして求められますし(特に今)、また、誰かのために尽くす事の尊さと素晴らしさを教える事が、今の教育には必要だと思います。
参考資料・サイト
嵐の中の灯台
小柳陽太郎・石井公一郎・監修 明成社・刊
濱口梧陵 wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/濱口梧陵
稲村の火の館
http://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/english/index.html
稲村の火 wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/稲むらの火#.E5.A4.96.E9.83.A8.E3.83.AA.E3.83.B3.E3.82.AF
安政東海地震 wiki
http://ja.wikipedia.org/wiki/安政東海�%9
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