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コーヒーに揺れる朝|エチオピア(1)

 降り立つと、どこからかコーヒーの揺らめく匂いがした。

 空港で忙しなく歩く人たち、鼻へ抜ける香ばしさ、手招きするタクシードライバー。気温が高いのに思ったよりも汗をかかないのは、湿度が低くカラッとしているからだろう。時々、風がさらりと頬を撫でていく。

 長時間のフライトで足元は少し揺らいでいる。外の空気を吸って、ようやく夢から覚めたような気分になった。

*

17時半、薄暮れ時

 12月某日、随分前から仕事を調整し、ようやくアフリカへ出発する日を迎える。正直、その日を迎える1か月くらいまで、私アフリカ行くの? 行くんだよね!? と自問自答していた。それくらい目の前の仕事に追われていて、考える暇もなかったからだった。それがいざ準備を始めて1週間くらい前になってようやく、現実が一気に押し寄せてきた。

(ああ、なんか胸がザワザワするわー)

 どれだけ歳を重ねても、旅に出る前は不思議な高揚感がある。

 出発当日もギリギリまで仕事をしていて、長引く会議に内心ハラハラしながらも、早々に切り上げて空港行きのバス乗り場へと向かう。クレジットカードに付帯された海外保険を適用するためには、移動手段にそのカードを事前に使う必要があると知り、空港までの道のりをわざわざ電車ではなくバスにした。

 準備が追いつかずに、日々自転車操業状態だった。カラカラ、カラカラと幻聴にも似た音が聞こえてくる。

 もうかれこれ10年ほど前、世界一周したときに購入したOspreyのSojournというモデルを実家から引っ張り出して、そこに1週間分の荷物とカップラーメン、洗剤、充電器などを放り込んだ。今持っているのは、60Lくらい入るそれなりに大きなキャリーバッグ。その気になれば背負うこともできる。

 久しぶりに動かしたせいでホイールの外側の部分が、バス停に行くまでに見事に砕けてしまった。いきなり先行きが危うい。このまま心まで砕けてしまわないように、とそっと胸の中で祈る(添付したURLは、現行バージョン。最近のものの方が丸みを帯びていて可愛らしい)。

旅の始まりはいつもワクワクする

 ただ、もう家に引き返すことはできない。すでに足元が悲しくも崩れ去ったOspreyを引きずり、空港へと急ぐ。

 おかげで、無事にチェックインの時間に間に合った。荷物を預け、いよいよ飛行機に搭乗する。機体がふわっと空へ舞う。この瞬間がたまらなく好きだった。泣き出す赤子、それを宥める母親。何かポロポロと体から溢れていく感じがする。

 今回はスターアライアンスのマイルを使って予約していた。利用したのは、エチオピア航空。周りを見渡す限り綺麗な服に身を包んだ女性がたくさん座っていて、みんなおおよそとてもアフリカに行くとは思えない。頭に疑問符が浮かんでいたのだが、その殆どがトランジットの仁川で降りてしまった。なるほど──。韓流ブームの人気は、依然として衰えを知らないらしい。

 韓国で1時間ほどのトランジットを挟んだ後、約18時間程度の長旅である。狭い座席シートで窮屈に縮こまりながら、予めiPadにダウンロードしていた『ライオンの隠れ家』を一気見する。話題になっていたので絶対飛行機の中で観ようと思い、リストに保存していた作品。さまざまな人から勧められただけあって確かに面白いし、少し泣いてしまった。坂東龍汰のあまりに自然な演技に魅入られた。

 画面にずっと目が釘付けになっていたおかげで、夜が深まるにつれて健全に眠気が襲ってくる。ふだん飛行機を乗る時に夜はあまり眠れないのだけど、この時は窮屈な席でも気がつけば深い眠りの世界に沈んでいた。

 ちなみに、もう一つ楽しみにしているのが飛行機の機内食なのだが、エチオピアの行きの便では3回中1回くらいちょっと韓国料理っぽいご飯が出た。お供は、赤ワイン。基本的に味は濃い目。飛行機で飲むお酒ほど美味しいものはないと思っているのだが、疲れが溜まっていたのか思いの外すぐに酔いが回ってしまった。

*

空は青き、人は気高き

至る所でビルが建設されている。骨組みは剥き出し。

 気がつけばあっという間にエチオピアの中心地であるアディスアベバへ到着していた。

 過去、アフリカといえばモロッコへ少し降り立ったくらい。バージンアフリカとも言うべき状況に、私は少し、いやかなり緊張していた。というのも、行くにあたりネットの情報を調べたり人に話を聞いたりしているうちに、日本みたいにゆるい感覚でいるとあんたられるよ、と脅されていたからである。

 アフリカの地に足をつけた時、とても新鮮な感覚が押し寄せてきた。それまではアジアに行ってもヨーロッパにいても、肌の色が多少違うだけで大したことはないと思っていたのに。みんな肌の色が黒い中で、一人微妙に中途半端な肌の色をしている人間が存在している。それだけで完全にここは別世界だと思ってしまう。世界観が違う場所に、ぽつり孤独に混じってしまった感覚。

 到着が朝だったので、空港で降り立った後すぐにRIDEというアプリを立ち上げる。エチオピア国内で移動する際には、とても重宝した。使い方的にはGrabやUberとよく似ている。行きたい場所を指定するだけで、あれよあれよと近くのドライバーたちが手を挙げる。着ていたダウンを急いでくるくるっとまとめ、半袖に着替えた。数分後、見事交渉権を獲得したドライバーから電話がかかってくる。

 RIDEというアプリは、基本的に最初ドライバーを手配した段階で走る距離も計算されて会計も明朗だ。そう、基本は──。

 だがここで、早々に計画が狂い始める。

 Tilahunという男の人がこの時ドライバーとして来てくれたのだが、到着して早々、異常なホスピタリティを発揮してきたことに端を発する(得てして初めて会う人が極端に優しい時、何かあると身構えねばならない)。

 見た目還暦を迎えたくらいだが、なかなかに信頼できそうなおじさんだと思った。英語も喋ることができたので、簡単にエチオピアの情勢などについて尋ねると、いろいろ教えてくれた。エチオピアは50%がクリスチャン、40%がムスリムなのだが、宗教の違いで争ったことは一度もない、とか。すると、走ってすぐに「You、コーヒーを飲みたくなーい?」と聞いてくる。

エチオピアのコーヒーは香ばしくて美味しい

 確かに飲みたい気分だったので、コンマ数秒考えた後で空港からすぐのコーヒーショップへ連れて行ってもらう。そこで飲んだコーヒーは、確かに私好みの苦さで美味しかった。すっかり満足したのだが、飲み終わった後Tilahunはさぞ当然かの如く自分の分も一緒に支払わせようとするのである。え、ええー……。旅の始まりだしまあいいかと思って、出してあげたけどどうも腑に落ちない(だいたい一杯200円くらいだったはずだけど、旅をしていると基本財布の紐はいつも以上に固くなるのです)。

 その後、ダナキルツアー*に行こうとしている、という話をすると近くの顔見知りの旅行会社に連れて行かれる。値段で折り合いがつかなくなってそのままホテルへ送ってもらったのだが、結局RIDEで当初見込まれていた3倍くらいを支払う羽目になった。(だーって、途中でいろいろと寄ってあげたじゃーん! とさも当然の如く振る舞うドライバー。腑に落ちない……)

 旅の始まり、いきなり出鼻を少し挫かれてしまう。ここで少し、エチオピアの人たちの国民性みたいなものを垣間見た気がした。

*ダナキルツアー
今回エチオピアへ行くにあたって、行きたいと思っていたダナール火山とダナキル砂漠をまわるツアー。巷では世界一過酷と言われている。今回の旅の行き先の一つとして考えていたため、なんとかしてツアー会社を見つけねばと、私は鼻息荒くしていた。

*

好奇と停電

みんな、割と視線をこちらに向けてくる

 荷物を置いて一息ついた後、せっかくなのでホテルから出てぶらぶらと市内を散歩してみる。歩くときは最小限の荷物にしてお金を入れる腹巻きぐらいにしておいた。
──危ないから。

 カメラも普段であれば、目立つ一眼レフを持ち歩いてパシャパシャ撮るのだが、この時ばかりはRICOHのGRというコンパクトカメラを持ち歩いた。
──危ないから。

 実際歩き始めると、いろんな人たちがすれ違う度に私に好奇の視線を向けてくる。最初は自意識過剰かと思ったが、目があったら薄暗い場所にそのまま連れて行かれて首絞められるんじゃないかとかなりビクビクしていた。
※ただしばらく滞在してみてわかってきたが、彼らは(当然ながら)決して犯罪目的ではなくて、単純にアジア人が珍しかったのだとわかる。

 ここでもう一つ目的としていたのは、他の人たちのブログなどに出てきたETT(Ethio Travel and Tours)という旅行会社のオフィスへ行くことだった。元々エチオピアでは前述の通りダナキルツアーに参加しようとしていたのだが、そのツアーに参加するにあたって安く提供しているのがETTという話だったからだ。

 先人たちのブログなどを見てみると、移転しただのなんだのと書いてあるが、後から聞いてわかったのは結局ETTのオフィスは2つあるということだった。何やらいろいろとややこしい。これからエチオピア行く方、安心してください(?)。

オフィスの近くには、野良犬が意気消沈していた

 それはさておき、1つ目のオフィスに向かうと、誰も人の気配がしない。これはどうしたものかと思って2つ目のオフィスへ赴き、エレベーターに乗る。扉が閉まった瞬間、突然全てが消えた──。予想だにしない出来事に頭がパニくる。真っ暗で、階を示すボタンを何回押しても反応する気配がない。うわ、どうしよう、閉じ込められた。

 幸いまだ動く前だったのでなんとか手でこじ開けてことなきを得たが、これが動き出した後だったら大変だった。お店の人に聞くと、停電はしょっちゅうあるらしい(あまりに必死の形相だったのか、くすくす笑われた)。ここで少しずつ旅人マインドに切り替わっていく。便利な日本にすっかり染まってしまったが、こういうアクシデントはつきものだということを。

 結局2つ目のオフィスも人っこひとりいなかった。時は土曜日の午後。後日、ETTのスタッフ曰くオフィスは24時間営業しているという話をされたが、それはたぶん嘘に近いのではと思う。到着してからわかったことだが、基本エチオピアではお店なんかは土曜日の午前中まで営業して、午後と日曜はお休みらしい。

どこに行っても、建設途中の建物が並んでいた

 とにかく私は早々に目的を達成できなくて、至極がっかりした。その後、再び街をぶらぶら歩きながら、何にも考えずパシャパシャ撮っていたけど、アディスアベバは至る所で建設ラッシュの建物が多く、それはさながら世紀末の崩壊寸前の世界を見ているようで少し面白かった。

いろんなものが崩れ、捨て去られている。

 最初はおっかなびっくり道を歩いていたのだが、行く先々で「ヘーイ、チャイナチャイナ!」と若者が嬉しそうに私に声をかけてくるので(新種のツチノコを発見したいような勢いである)、何かほんと途中からどーでも良くなって少しずつ警戒心は薄れていった。私がビビっているほど、たぶんこの世界に悪者はいないのかもしれない。

 あたり一面瓦礫だらけの道を歩くと時折得体の知れぬ悪意みたいなものを時折感じることがあって、その時ばかりは少し身構えた。歳を重ねる中で、人知れず防衛本能が働くようになったらしい。彼らは、私が写真を撮っていると自分の土地でもないのに、マネーマネーとお金をせびってきた。

どこかしらで、チャイナの影を見る

 ちなみに途中で出会った現地の人たちに話を聞いたところ、どうもエチオピアは中国の資本が結構入っているそうで、このあと出てくるアディスアベバの西から東を貫いて走っている路線電車も中国がかなり支援したらしい。なんとなく、中国が世界をじわじわと牛耳っていく構図を見た気がした(だから基本現地の人たちはアジア人っぽい人間を見ると、チャイナ!と叫ぶ)。

*

主食たるインジェラは何者か

インジェラの大きさは、予想以上だった。

 歩いているうちにだんだん日が暮れ始める。到着していて思ったことだが、エチオピアの空は異様に青い。そして夕暮れもとても綺麗。東京で見る景色と違うように見えるのは、果たして気候の問題なのか、はたまた私の心の有り様なのか定かではないが、とにかく美しかった。

 そして夕ご飯どうしよっかなーと彷徨った挙句辿り着いたカフェで、ついにインジェラを食べることになる。

インジェラを知らない人も多いと思うので簡単に説明すると、テフと呼ばれる穀物を水と醗酵させて作られる、日本でいうところの米みたいな存在である。エチオピアの人たちは、基本朝も晩も飽きることなくインジェラを食べている。どこいってもインジェラもどきが隠れている。

 ただしこのインジェラ、悲しいことに旅人の間では大変不評なのだ。某検索エンジンでインジェラを検索すると、かわいそうになってしまうくらいとにかく酷評が多い。曰く、絞った雑巾の味がするとかなんとか……。雑巾だけに、ボロボロに書かれている。

 そこまで言われては、流石に同情する! ということで、ものは試し早速レストランで食べてみた。そう、何事も視野を広げるべく知らぬままに選り好みは良くない……と自分に言い聞かせる。

 で、その感想はというと──。

 正直、事前に紹介されていた悪評ほど不味くはなかった。というよりも一周回って美味しい? もそもそしていて、ほんの少し酸っぱい。私は結構食べることができたし、なんならインドで食べられているドーサに似ていなくもない(どちらも発酵食品だし)とさえ思った。

 けれど、問題はその量だった。出されたインジェラはざっくり見積もっても私の顔の三倍くらいの大きさであり(私の顔自体は一般的なサイズ)、どう考えても一人じゃ食べられないくらいの量だった。食べても、食べても無くならない。

 それもそのはず、周りを見ると基本3人くらいで分け合って食べていた。そういうものなのか、と私はひとり肩を落とし、ボソボソとインジェラを食べ続けた。最後は無理やりビールで押し込んだ。こういう日もある。

 ということで初日、早速ちょっとした洗礼を受けたわけだけど、街を歩いてみて最初の警戒心はどこへやら、楽しく過ごせそうな予感がした。

 新しい刺激に脳のキャパシティを超えてしまったのか、宿に戻ったのが7時くらいだったが驚くほどスヤァと眠った。夢は見なかった。<続く>

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だいふくだるま
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