#76 蔵の街についての愛を語る
静かに、しとやかに耳の奥で音が鳴っている。寒さで少し手が悴み、雨はまばらにバラバラと降っている。吐く息が白い。次第に音の輪郭の正体がわかってきた。駅の中央に設置されたピアノにて、誰かが軽やかなメロディを奏でている。周りには人が集まり、何事かと興味津々の顔で覗き込んでいた。私は初めて降り立つ駅に、少し心が浮き立つのを自覚した。
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栃木県の、栃木駅。Wikipediaによれば、日光例幣使街道の旧宿場町で「小江戸」と呼ばれる栃木市の代表駅だそうだ。かねてより行きたいなぁと気になっていたのだが、ようやくカメラ仲間と共に訪れることができた。あいにくの空模様。駅まわりは正直パッと目を引くようなものがなく、あれここに本当に「小江戸」の街が存在するのだろうか、と心配になってしまった。
ところがどっこい!(だいぶ語感が古いですね 笑) 歩いて10分ほど歩くと、なんとも情緒ある光景が見えてきた。ちょうどお昼くらいのタイミングだったので、事前に調べていた「赤城亭」という洋食屋さんを訪れたのだが、なんとまさかの予約で満席とのこと。ランチに予約でいっぱいとは……恐れ入りました。
というわけでその近くにあった定食屋さんで味噌ラーメンを食べて一休みし(ここも10分くらい待った)、それから街を散策。「小江戸」とは、江戸との舟運で栄え、江戸情緒を残す蔵造りの町並みと江戸天下祭の影響を受けた山車祭りがある街のことらしい。
有名なのは、おそらく埼玉県にある川越だろう。一度は名前を聞いたことがある人も多いかもしれない。特に、「川越氷川神社」が有名だ。夏になると華やかな風鈴が掛けられて、チリンチリンと涼やかな音が鳴る。一時期、どこを見てもインスタグラムではこの場所の写真がそこかしこにアップされていた覚えがある。
蔵の街はちょうど閑散期だったのか、あまり人らしい人はいない。たぶん、5月が繁忙期だと思う。なぜなら、川の上一面に鯉のぼりがこれでもかというくらい旗めいているからだ。でも、これはこれで良かったかもしれない。人があまりにも多いと、変に疲れる。
吐き出す息は白かった。友人たちと寒いね寒いねと手を擦り合わせながら歩く。どこかみるところないかなーと思って事前に調べたところ、塚田歴史伝説館という場所が面白そうだったので中に入ってみた。ここはさまざまなからくり人形が有名らしい。
入ると早速おばあさんが心地よい歌を聞かせてくれる。あと、入ってからもっとびっくりするところもあって。これは実際に行ってみてほしい。なんとなく全体的に(かなり)昭和感満載で、これはこれで逆に最先端いってるかも? と笑い合って、結構楽しい時間だった。栃木の悲恋話も聞けたし。タイムスリップした感じがして、個人的には好きな場所だった。
そのまま川沿いを歩いて、趣のある街を眺める。かつては舟の運搬で栄えたとあって、今もなお観光向けに時々舟がをゆっくりと漕いでいる人がいる。あまり詳しくは調べなかったのだが、数百円で舟に乗り栃木の蔵の街を堪能することができるらしい。もう少しあったかかったら乗りたかったかも。
あの時、私たちはどんなことを話したんだっけ。他愛もないことを話した気がする。毒にも薬にもならないようなことを話して、気がついたように寒いね、と頷きあう。どうにも体がプルプルと震え始めて、耐えきれずに近くのカフェへ入った。
パーラートチギという、これまたちょっと昭和時代を彷彿とさせるお店の中は、思いがけず昭和と平成が混じり合ったような内装になっていた。この時私はなぜか無性に甘酒が飲みたくなっていて、矢も盾もたまらず注文した。数分して運ばれてきた甘酒は変に甘ったるくなくて、ふっくらと体が温まっていく。これは、令和的な要素もあるかもしれない。中心でシューシューと薬缶が沸騰している。
それからまた少し、ウロウロしてみんな思い思いに写真を撮りはじめる。ちょっと雨が降りそうなあいにくの空模様だったけれど、なんとかもった。これは日頃の行いがいいかもしれんねぇと言ってサラサラと笑い合う。やがて誰かが駄菓子屋に入ろうと言い出した。
それで中に入ってみると、まさに好々爺と呼びたくなるような店主の方が出迎えてくれて、いろいろ駄菓子について教えてくれた。この場所が問屋で普通のお店のようにバラ売りしていないということ、最近原材料の高騰を受けてお菓子も値上げをしていること、さくら大根は昔は千葉産のものを使っていたのだが大根を作る農家が少なくなったとかでわざわざ佐渡島から大根を取り寄せて使っていること。さくら大根は運送費の関係上、若干値上がりしたらしいが、佐渡島の大根は千葉産のものよりも大ぶりで味が良いと好評なんだよ、フェッフェッフェと笑っていた。
小学生の時、十円玉を握りしめて何を買おうか迷っていた君へ、大人になることに怯えていた君へ、あの頃の自分に教えてあげたい。あのさ、大人になるのも悪くないよ、だってさ、大人買いしてこんなにたくさんの駄菓子を買うことができるんだからね。
友人たちは何かに誘われるようにいくつか駄菓子の箱を買い、私はモロッコヨーグルトとミニドーナッツを買った。1つは家族にあげ、1つは会社にお土産として持って行った。なぜ駄菓子……? とみんな訝っていたが、どこか嬉しそうだった。きっとみんな大人になって童心に帰りたいと言っているけれど、実際には戻ることは難しいからね。駄菓子はもしかすると荒んだ人の心を救うのかもしれない。
いつか、蔵の街へまた行ったときに店主に伝えてあげたい。あなたから買った駄菓子は確かな愛を持って、いろんな人たちを笑顔にしてますよ、ってね。