#77 静かな時についての愛を語る
朝目覚めると、遮光カーテンに囲まれたわたしの部屋は真っ暗だった。寝る前の暗闇は安心するが、新しい一日を迎えた時の深い黒の世界はあまり歓迎すべきものではなかろう。寝室の扉を開けて、リビングにあるカーテンを開くと、そこから一気に柔らかな光が入ってきて、部屋の中を満たす。
カサついた肌。随分知らぬ間に私の肌は潤いを失ってしまったようだ。人人と鈍く痛む頭の影。この渇き具合はなんだろう。体に力が入らなくてぐったりとする。気だるい、恐ろしく真っ黒な得体の知れぬ何かが、差し迫っている。
ここのところ少し私の頭を悩ませるものがいくつかあって、気がつけば足元を掬われるようにぼーっとしてしまう時がある。最近会社に出社することが増えたけれど、ちょっと上の空かもしれない。ようやく気持ちが乗り始めて、サラサラと写真を撮っている。
全速力で道を駆け抜けているとき、人は疲れを感じない。でも何かのきっかけで立ち止まってしまった時、突如としてその歯車は空転を始める。カラカラ、カラカラ、ギシギシ、ギシギシと音がする。絶妙な乱れが生じていて、次第に速度を上げていく。重い腰を上げる。車道外側線に沿って一歩ずつ足を踏み出していくと、グラグラと揺れる。こういうのは、すべてバランスから成り立っている。
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寒くなると、自分の中がパチンと弾けて急激にそれまであったやる気や原動力のようなものがごっそりと持っていかれてしまう。その時ちょうどとあることがきっかけで発達障害について調べていた。発達障害は脳機能の障害のことなのだが、最近はグレーゾーンと認定されている人が増えているという。
一見なんら普通に過ごしている人のように見えても、そのいくつかの所作で一部発達障害と思われるような傾向が見られる人のことをそう言うらしい。そもそも発達障害とはどんな症状があるかというと、これもいくつかの種類に大別されて、
と言った種類があるそうだ。ちなみにASDは一昔前は、自閉症スペクトラム症という呼び方がされていた。これはかなりナイーブな話にはなるが、改めて発達障害における症状を見ていくと、私自身も昔からADHDの気質があったように思える(実際、親にも心配されたことがある)。
思い出してみると、そういえばデパートに行った時も、気がつけば親の手を離れてどこかへサラリと消えてしまうのである。これはおそらく親も手を焼いたに違いない。当時のことを思い出すべくもないが、親からはいつデパートの迷子アナウンスで呼び出されるかヒヤヒヤしていたそうだ。そういえば、今はもう迷子アナウンスって聞くことがないな。プライバシーの問題からかな。
昔から、何かしなければという衝動に突き動かされていた気がする。目には見えない何かに。いつも自分の中にあるのはこのままではいけないという焦燥感と、体をとにかく動かさなければならない、予定を埋めなければならないという衝動、何もしないと地面にそのままズブズブと埋もれてしまうという恐怖だった。時間は限られていて、刻一刻とそれが削られていくのだ。
たぶん、何か自分が自分であるための証を見つけようとしていたのかもしれない。バタバタともがいていた。ちょうど少し前に水泳を習うようになって、「力入れすぎないで。沈んでいくから」と言われたことを思い出した。さぞかし無様な姿だったに違いない。それでも、私は力任せに進み続けることをよしとしていたのだ。
だから学生の時にも、時間がある限り誰かと会って、どこかに出かけて、旅をして。そうした自分の中に染みついた執着というか執念みたいなものは離れがたく、私の周りをいつもウロチョロしていた。
おまけに、よく物を忘れた。恐ろしいくらいに。そう、何かに囚われると他のものが一切目に入らなくなるのである。この性質は今も変わっていなくて、よく出先で充電器やスマートフォン、時には財布を忘れたりもする。相当重症だ。それでも、日本では大して何も盗られずそっくりそのまま返ってくるから驚き。安全国家、万歳! 思わず両手を振り上げる。まあ、それほど中身が入ってなかったということもあるのだろうけれど 笑
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時は流れて、ようやく最近何もせずぼーっとする時間も大切なのだということを骨身に感じるようになったのだ。少し前までは脇目も振らず全力疾走だったのだが、それもだんだんしんどくなってきたし、もっというとぬるま湯に浸かりたいというお年頃になってきたのもある。親しい友人からは、それだけでなんか別人みたいと言われる。「だいたいあなたを誘うときは、数週間前に声をかけないと遊べなかったのにね」、と。まるで行列のできるレストランみたいで思わず苦笑いしてしまった。そんないいものではないけど。
だから不思議と最近は、あまり予定を詰め込みすぎずゆるゆると過ごしている。友人から誘われればもちろん一緒に時間を過ごすことはあるけれど、それ以外の何も予定が入らない日は気軽に図書館へ足を向けて、一日ゆらりと本を読んでいる。いまだにいろんなしがらみはあるものの、もしかすると昔よりゆっくり呼吸ができるようになったかもしれない。
朝は好きなパン屋さんでひとつ食べたいと思うパンを選んで、図書館で本を読んで、それから帰ってきてベランダで洗濯物のようにぬぼーっとする。前と比べると、自然の音がわかるようになってきた。風の音も、鮮やかな空の色も、鳥の囀りも、柔らかな空気の温度も。
いつだったか、会社の同僚と話をしている時に、なんで歳を取るとみんな苔だとか盆栽だとかを愛でるようになるんだろうね、という話をしたことがある。いろいろ二人で話をした結果、きっと人は最終的に動から静へ移行していくからだということになった。
20代・30代はとにかく毎日働き続けるだけの体力があるのだけど、歳を重ねるにつれて昔と比べると思うようにはいかなくなっていく。そして人は呼吸を合わせるように、より動かない対象へとその愛を傾ける先が変わっていくというのだ。そうか、昔は私には全く理解できなかったけれど、今になってようやくその境地に至りつつあるような気がする。まだまだ道は険しそうだけれども。
ちなみに、最近の私の興味の向く先のひとつは陶器。カレーを食べるようになって、ありきたりなお皿で食べることに違和感を持ち始め、それから自然と、眺めても「美味しい」器を探すようになった。いつか、陶器に対する愛も語れたらいいな。
私は今、お気に入りの茶碗でほうじ茶を飲みながら、この記事を書いている。ゆっくりと、何物にもとらわれず。自然の音に耳を傾け、静かな時への愛を感じながら、ころころと舌で香ばしいお茶の味わいを楽しんでいる。