#95 愛と差別と友情と
ご無沙汰しております。ついこの間まで、セミがかまびすしく鳴いていたはずなのに、気がつけば暑さもひと段落している気がします。ついこの間まで夏は長いなぁと思っていたのに、あっという間に時が流れていく。つぶやきでも触れましたが、ここ数週間ずっと海外にいて、それがわたしにとっての非日常であり、そして普遍的な日常なのだということを噛み締めていました。
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海外で見聞きしたあれこれは一旦脇に置いておいて、改めて#愛について語ることシリーズ、残り6回楽しみながら? 時には悶えながら執筆していきたいと思います。
たまたまTwitter(今やもうXという名前なんですね。思い入れがなさすぎる名前になってしまい残念)をぼんやり眺めていたら、タイムラインに流れてきた一冊の本の紹介文。私は思わず釘づけになり、気がつけばAmazonでポチっていました。主にLGBTQ+について触れた書籍であり、なかなかにナイーブな内容であることは重々承知ですが、本作品を読んだことによって私が感じたことに関して、拙いながらも書いてみたいと思います。(私の理解不足の面もあるとは思いますが、その点はご容赦ください)
そもそも改めて、という形とはなりますが著書で述べられているLGBTQ+について説明させてください。ざっくり言うと、性的マイノリティを総称したもの、です。
要は、一昔前であればこの世界には男性と女性二つの性が存在していて、片一方がもう片方の異なる性に人にときめいて、恋愛をし、結婚するということがいわゆる普通の尺度として用いられていたわけです。それが、実は男性が女性に、女性が男性に、という単純な図式ではなくて、同じ性でもその両者間で恋愛感情を抱くことがある、ということがようやく世間に認められたという背景があります。
今思えば、こうした同性間の恋愛ってあるんだ、ということを意識し始めたのは、わたし自身の歴史を紐解くと金八先生が始まりでした。上戸彩さんが演じた鶴本直。戸籍上、というか肉体上は女性なのですが、その意識の中は男性で身体上の性と合っていない(=性同一性障害)、というのが直のキャラクターでした。
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世はいつでも、マジョリティとマイノリティの世界で分断されてしまっている。言い方が悪いですが、マジョリティはともすると大多数の渦の中にいるわけで、特別何かをしなくてもデファクトスタンダードみたいな感じになっていて、基本その渦の中にいさえしたら生活がとても楽です。でもその渦の中からはみ出してしまい、大多数から逸れたマイノリティ側の世界に生きる人たちからすると、息苦しい世の中の仕組みになっている。
特に同性愛者というのは、いわゆるマジョリティ側の人々からすると奇異な存在に映ります。そう、自分たちとは違う存在で、なかなか受け入れられ難い。LGBTQ+の人たちからすると、自分たちはいたって普通の生き方で生活しているはずなのに、渦から外れたことをきっかけに迫害を受ける形になってしまった。ただ一人の人間としていきたいだけなのに、渦中にある人たちはマイノリティ側の人たちのことがわからないし、理解しようとも思わなかったのです。
本作品では主にゲイに関して触れられているように思います。おそらく著者自身もそうした性的指向を持っているからでしょうか。現在においてようやく市民権を得ることができるまでの長い歴史が、各時代の凄惨な傷跡と共に綴られています。
そもそもは1960年代における女性解放運動から始まり、ヒッピーだとか麻薬だとか少しアンニュイな雰囲気漂う世界観の中で、力強く己の存在を主張するべく、マイノリティの枠に追いやられてしまった人々たちは拳を振り上げました。私たちは確かに息をしていて、あなたたちとなんら変わらない人間なんですよ。愛の向くさきが、ほんの少しあなたたちと違うだけで、それでもあなたと同じ「人」なんです。
俳優であるロック・ハドソンがエイズによって亡くなったことをきっかけにして少しずつ風向きが変わり始めます。再び原因不明の病で少し風当たりが強くなり始めるのですが、クローゼット(この場合世間の人たちにカミングアウトをせず、自身のうちに性的指向を秘めることを指します)の中から飛び出し、そしてこれまであえてカミングアウトしなかった人たちが、自分はゲイであることを主張し始めました。
一方で保守派の人たちは、いわゆるマジョリティ側の人間として性的マイノリティの人たちの存在を認めず、挙げ句の果てにはLGBTQ+の人たちには生産性がないとまで言い切ったのです。果たして、子どもを産むことができることで、その存在を認められるのでしょうか。今でもわたしはその考え方に頭を悩ませます。異性と恋愛して、結婚して、子どもを産んで。しあわせの形はそれぞれであるのに、それだけが正なんだと押し付けられる空気。
ですが、アメリカ文化は良くも悪くもいろんなことにおおらかな社会で、少しずつ世論が性的マイノリティの人たちも認めようという風潮に変わると同時に、再び風向きが変わり始めるのです。日本においても、Z世代と言われるような、建前を本音としてズバズバいう世代となって、ますます映画とか本とかでもLGBTQ+の人たちが主役となれる時代が到来したように思えます。
確か一年前ほどに観た、『チョコレートドーナツ』。育児放棄をされた障害を持つ少年と、ゲイだと自覚する人たちが3人で暮らす生活を映した物語。それまでわたしは実はそういう世界があるのだと思いつつも、どこか傍観者でした。でも、そうしたマイノリティ側の世界に置かれることによるしんどさみたいなものをまざまざと目にして、加えてその愛の強さに、深く感動したのです。
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ようやくここに来て、大多数の人たちとは異なる性的志向を持つ人たちの存在が認められてきている。日本にもその波がきており、レインボーフラッグを筆頭に、6月にはプライド月間というものが設けられて大々的なイベントとして成立するようになっている。
自分だけがおかしいと思っていた──。そうした深刻な悩みを抱えた人たちの存在が、ようやく認められようとしている。そして、きっとそうした悩みを抱えている人たち、例えば朝井リョウの『正欲』に登場するような他の人には受け入れ難い指向の人たちにとっても生きやすい世界にようやくなってきたように思います。少しずつ、少しずつですが。
本来、人は4つの軸から成り立っていて、1.性自認、2.身体の性、3.性的指向、4.性別表現からなるそうです。でもこの手の話はなかなか思うように告白できないものだし、わたしもその立場だったら主張しにくいかもしれません。
昔所属していたカメラサークルの中にも性自認が身体の性と異なる人がいて、でも彼女は全くそんなことを気にしていなかった。彼女はただまっすぐにあるがままを生きて、そして毎日を過ごしているように見えました。ただただ、わたしはそれだけで美しいな、ともするととても羨ましいなと思ったんです。
実を言うと、わたし自身も半ばグレーゾーンのような特性を持っているところもあるし、興味の対象ももしかしたら、人と違う部分があるかもしれない。少なくとも何かしらそうした自分の指向に対して名前をつけてもらえることによって、自分の存在価値を認められたような気になります。結婚したいという意思はあるのですが、これが言葉にならないチグハグさを伴っていることもまた、わたし自身の中でぐるぐるしているんです。
だからこそ、わたしは愛とは何か、人に話すにしては少し恥ずかしいこの短い言葉を、その正体を探し続けています。
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ここで改めて、LGBTQ+の人たちを始めとする性的マイノリティの人たちと、愛とを結びつけていきたいと思うんです。
かつては愛の形というのは、男性と女性の間に生まれ、それから二人の間に生まれた血縁関係のある子どもとの間に生まれるもの──というのが定説だった部分もあるように思いますが、実はそうじゃないんだ、というのが今まさに世の中に植え付けられている萌芽なのではないでしょうか。
──愛とは。
それは男女関係なく、そして血縁関係なくとも生まれうる存在のことを指します。そして愛は決して普遍的ではないので、さまざまな障害トラブルによって儚く崩れる可能性もあることでしょう。でもそれは、もはやかつてのようなマジョリティだけが光を浴びる存在ではなくて、きっとさまざまなシチュエーションの中で生まれるべきもの、なんだと思うんですよね。
理解したい、
そばにいたい、
優しく労わってあげたい。
それがたとえ異性であっても、同姓であっても。
大丈夫、きちんと生きていける。この世の中は思ったよりも悪人ばかりではないですし、少しずつ世界の様相も変わってきている。いろんな考え方があり、それは全然間違ったことじゃないんだよって、そうやって口にすることができれば、それでゆったりとしあわせに満ちた空気が流れていくように思っています。わたし達は、誰でも自由に自分の道を愛すべき人たちと生きていくことができるのですから。
それは、人に与えられた最低限の基本権です。
故にわたしは真摯に愛を語る
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