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ビロードの掟 第1夜

【中編小説】
このお話は、全部で43話ある中の二番目の物語です。

◆前回の物語

第一章 シトラスの名残り(1)

 ミーンミンミンミン……。

 どこからか聞こえてくる、耳をつんざくような蝉の鳴き声。その音に促されるように、相田凛太郎りんたろうはゆっくりと目を覚ました。暑さでびっしょりと背中に汗をかいており、気持ちが悪い。

 洗面台に向かってひとまず顔を洗った後、いつもの習慣でそのままカーテンを開ける。眩い光が部屋の中に入ってきた。目の前には、雲ひとつない晴れ渡る空が広がっている。ついこの間までの梅雨空が嘘のようである。

 凛太郎は昔から雨が苦手だった。

 憂鬱ゆううつな気分になる上に、癖っ毛なので髪型をセットしにくい。そのため最初蝉の声を聞いた時は、梅雨が明けたことに対して柄にもなくはしゃいだ気分になった。だがこうも毎日聞いていると、逆に気が滅入ってくる。1週間程度しか生きることのできない儚い命。そんな自身の短命な人生を、彼らは精一杯体を震わせて嘆いているのではないかと思ってしまう。

 ひとまずこの蒸し暑さを何とかしようとエアコンのリモコンを手にしたが、電源ボタンを押してもうんともすんとも言わない。思わず舌打ちをした。

 今住んでいるアパートに設置されていたエアコンは、何年前に設置されたのかわからない旧式のタイプである。ここのところ電源をつけるたびにガガガガと異音がしていた。

 そのまま放置していたら、昨日電源をつけようとしたときにこれまでにない派手な音がした。タイマーをつけていたのに蒸し暑さで目を覚ましたのは、どうやらエアコンが故障してしまったせいらしい。 

 時間を見ると7時半だった。凛太郎は一旦エアコン問題から目を逸らし、会社への出勤準備をすることにした。

          *

 寝不足のまま会社へ出社すると、荻原達哉が既に会社のデスクの前に座っていた。凛太郎に向かって「おはよう」と爽やかな声で挨拶してくる。

 荻原は凛太郎の同期で、北海道の出身である。最初、同期の間ではどこか田舎くさいやつだと影でからかわれていたが、営業部に配属後瞬く間に身なりや口ぶりが変貌へんぼうしていった。そしてその穏やかな雰囲気と元々の頭の良さを生かして、次々に新しい注文を取っていった。今では同期の中でも異例の早さで主任というポストについている。

「おはよう、荻原。お前、相変わらず仕事人間だね。こんな朝っぱらから出社して、真面目に仕事しているのなんてお前だけなもんだよ」

 荻原の前にはコンビニの袋とサンドイッチ、ホットコーヒーのSサイズが雑多に並んでいた。反面、その周りは見事に資料やら筆記用具やらが綺麗に並べられていた。何かの本で読んだが、できる人間は机の上が綺麗なものらしい。

「そうかな。何せ不器用なもんでさ、人より時間かけないと今抱えている仕事をこなせないのよ。その点お前はなんでも器用にこなせるから羨ましい」

 荻原は目を細めて凛太郎を見た。ほのかにシトラスの匂いが香る。凛太郎は荻原が最近女の子と付き合い始めたという噂を誰かから聞いた。自信がついたのか、その外見に磨きがかかっているように見える。彼の真摯しんしな目つきを目にして、凛太郎は気後れを感じた。二人の間にある、仕事に対する圧倒的な熱量の差。

「俺の場合、仕事ができないから重要な仕事を任されないだけさ」

 凛太郎はその場から逃げ出したい気持ちになった。果たして今も自分はこの会社から必要とされているのだろうか。周囲から意見を聞いてみたいと思いつつも、否定的な意見が出てくることを恐れて今だに誰にも聞けていない。

「何言ってんだよ。お前、柴田さんに聞いたけど今の部署でも大活躍だってな」

「うーん、どうだろうな。まあぼちぼちってとこだよ」

 凛太郎が所属する会社では、企業向けシステムアプリの提供が主な事業だ。新人研修を終えた後、凛太郎は早速実践とばかりにプロジェクトのメンバーとして配属される。そこで3年ほど客先にてコンサルティング業務を行った。

 ところがあることをきっかけにクライアントの一人と口論になってしまい、そのまま資料作成の部署に転属となった。当然荻原もその話を知っているはずだが、彼の言葉からはそのことを揶揄やゆするような言葉の響きはなかった。

「相変わらず謙遜が上手いな。それよりさ、久しぶりにちょっと今日一杯いかないか」

 荻原がくいとお猪口ちょこを口に持っていく素振りを見せる。最近ではドラマなんかでもあまり見られなくなったジェスチャーだった。不思議と荻原がすると、どこか様になる。

「ああ、そうするか。今日はあまり仕事も溜まっていないし、定時には上がれると思う」

「そりゃ朗報。そしたらいつもの店で、な」

 朝早く来ることの利点は、誰もいない中で快適に仕事を進めることができるということだ。凛太郎は30分間集中して、昨日の残タスクに取り組んだ。次第にオフィスへ人が集まり始め、にわかにざわざわとあちこちから会話を交わす声が聞こえ始める。始業時間になるとお決まりのアナウンスがフロアに響き渡った。

「今日も爽やかな朝がやってまいりました。皆様、今日も元気に仕事へ打ち込みましょう!」

 続いて聞こえてくるラジオ体操。もう毎日耳にタコができるくらい聞いているので、もはやなんの感情も湧いてこない。凛太郎はそのまま新しいタスクに取り掛かり、黙々とこなした。気がつけば、終業時間を迎えていた。

 凛太郎たちが入社したばかりの頃は勤務時間にとやかく言われなかったのだが、最近は18時になると「皆様早めに帰りましょう!」というアナウンスが律儀に流れてくる。

 一昔前に過重労働が盛んにマスコミで話題に取り上げられたこともあり、すっかり会社の経営陣は逃げ腰になったらしい。凛太郎はその声に背中を押されるようにオフィスを出た。周囲からは多少冷ややかな目線で見られたが、見ないふりをする。いつのときも、昔の慣習に縛られる人間はいる。

 外に出ると、生ぬるい風が頬を通り過ぎていった。どこもかしこもオフィスビルばかりで無機質な東京の街。自分もその中に埋もれている一人。

 ハァとついたため息が、どこか自分が預かり知らぬ場所へと散っていく。

<第2夜へ続く>

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