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和歌山カレー事件と大岡裁き

「大岡裁き」とは

日本人が好きな時代劇の一つに「大岡越前」がある。「逆説の日本史」の著者であるジャーナリストの井沢元彦さんは、このドラマに日本の伝統的な価値観が集約されていると語る。大岡越前は、法にとらわれず、皆が納得するような判決をすることで観る者を「スッキリ」させるのだが、本来はこれは法治国家としては変なのだと。
例えば親孝行な次男が病気の親をよく世話していたとする。長男は遊び惚けていて親の面倒も見なかった。大岡越前の時代は長子相続制であり、親が死んだら長男がすべてを相続するのが法の上での正義だが、越前は「親孝行」を理由にして次男に相続させてしまう。めでたしめでたしというわけだ。

皆の心情に沿っていれば法律は無視して構わない?

しかし井沢さんは、法治国家としてこれはおかしい、名判決でもなんでもないという。長子相続制とは当時の日本で家の財産を分散させず、かつ無用なお家騒動を避けるために編み出された法律であり、それに属人的な判断で法令を適用しないのは正義でもなんでもないというのだ。
キリスト教という一神教のもとに法治国家を組み立ててきた欧米諸国ではこれが「名判決」と言われることはありえない。日本では「和」が大事にされ、法よりも「話し合いで皆が納得」することを重視するので、これがよいこととされてしまうのだと。

法律は一貫性のある適用を前提としている

井沢さんの言う通りだと私は思う。その時々で「みんなが納得する」ことを基準にしていては、判断基準がぶれかねないし、法の意味がない。上記のケースでは次男がいい人だから相続して当然、と観客は納得するかもしれないが、仮に三男もいて三男も孝行息子だったらどうするのか。他に、娘だっているかもしれない。一番上の男の子だけが相続するという法律を無視していいなら何でもありになってしまう。その結果財産が分散して家業自体が崩壊しかねない。また、大岡は「善人」だからよいかもしれないが、そんな柔軟な解釈が許されるなら、それを悪用して収賄など、私利私欲を達成しようとする裁判官だって現れかねない。いつの時代にもすべての公務員が「善意の人」とは限らない。そもそも裁判官という公務員の恣意的な判断を防ぐために法はあるのだから。

「和歌山カレー事件20年目の真実」を読んで

2018年に書かれた、田中ひかるさんによるルポルタージュ「『毒婦』和歌山カレー事件20年目の真実」を読んだ。そのきっかけはNHKの「逆転人生」で殺人の冤罪を晴らした男性の実話を観たことだった。その男性はいわゆる若い時は不良で、定職にもつかず、窃盗の前科もあったという。しかし近所に住んでいた被害者のAさんを殺す理由はなく、実際に殺してはいなかったと言う。それでも、殺人が行われた当日はっきりとしたアリバイがなかったため、近所の不良たちの中で白羽の矢が立ち、犯人にさせられてしまい、刑が確定してしまったという。

「確かに自分は悪い人間だった。でも殺しはしていない」

彼は取り調べの中でやってもいないのに自白に近いことを言ってしまう。どうやら物証は捏造された形跡があった。彼は獄の中から手紙を書き続け、全国から支援してくれる人を募り続けた。そのかいあって、人生ももうすぐ終わるという60代になって再審請求を行うことができたそうだ。結果として刑は取り消され、外の世界に出ることができた。

和歌山カレー事件の林夫妻も、カレー事件に関しては同じ主張をしている。彼ら夫妻は、知人と共謀してヒ素を使った保険金詐欺を繰り返し、多額の収入を得ている。夫の経営していたシロアリ駆除の会社のもと従業員も怪しい死に方をしており、「いい人間」でないのは間違いない。しかし不特定多数の人を殺傷するカレーへのヒ素混入は断じてやっていないというのだ。

二転三転する捜査側の言い分。怪しい証拠と証言。

この本を読んで一番印象に残ったのは、カレーを食べた人の死因だ。当初は「青酸化合物」と言われており、カレーからも青酸化合物が検出されたとのことだったのに、途中から「ヒ素」に変わった。まずここがめちゃくちゃ怪しい。ヒ素であればシロアリ駆除の経験がある林健治は家に持っていたし、過去に何度か保険金詐欺で悪用していた。
また目撃証言も不確かだ。メディアに頻繁に登場した少年は裁判で証言しなかった。服装に関する証言から、林真須美と娘を見間違えていた可能性がある。もう一人の目撃者である少女も証言はぶれ、また見たという角度も辻褄が合わない。何よりヒ素を投入したとされる紙コップに林の指紋がついていない。さらに林家で見つかったヒ素入りの容器の中身と紙コップの中身のヒ素は性質が異なるものだった。

そもそも動機がない

林夫妻は悪人だが、それなりに友人づきあいする人はおり、地域で浮いていても孤独ではなかったようだ。一緒に保険金詐欺をしていた2人の男はほとんど林夫妻にたかって暮らしていた。4人の子供に恵まれ、また詐欺で得た金で裕福に暮らしていたうえに、二人とも歯に衣着せずものを言うタイプなので、こっそりヒ素をカレーに入れるくらい周囲を憎んでいたなら、とっくに怒りを爆発させていただろうと筆者は言う。確かに相当変わった夫婦のようなので、「周りから浮いていたから住民を憎んで無差別殺人をした」と決めつけるのは不自然だ。それは「普通の人」の感覚だからだ。
またこれまでの事件では保険金目当てという明確な動機があったが、無差別殺人をしても得られるものはない。誰がどの鍋から先に食べるかわからないのに、特定の人物を狙ったとか、保険金目当てということもできない。

皆が納得する結論ならいいのか

林夫妻の素行が普段から悪く、住民やメディアに悪い印象を与えていたこと、また林夫妻が保険金詐欺という犯罪を犯していたことから、動機もなく、この程度の証拠であってもカレー事件の証拠としては十分とみなされた可能性が高い。そもそも彼らを進んで救おうと動いてくれる人がいない。メディアのアンチ林夫妻キャンペーンで日本中に嫌われ、自宅などは塀に中傷の落書きがされたあと、放火で消失しているほどだからだ。「観客」は林夫妻、特に毒婦の印象が強い真須美が犯人であれば「納得」する。証拠が不十分だから再審とするのが法の上での正義であっても、誰もそれを欲しがらないので、放置しておいても批判はされない。しかしいくら根っからの悪人でも、十分な証拠もなしに死刑が確定するとは、法治国家とはいいがたい。

他人事ではない

この事件を担当していた警察官は、他の事件で証拠を捏造していたことが後日明らかになった。日本の警察と検察の優秀さは前から言われていることだが、このような例を見ると、同じようなケースが他にもあるのでは、と疑いたくなる。共同体で嫌われ、憎まれ、他にも犯罪を犯しているなら、多少証拠不十分であっても検挙し、有罪にできるのかと。大岡裁きどころか、これでは「魔女狩り」ではないか。「推定無罪」「疑わしきは罰せず」の原則はどこにいったのか。もし自分が集団の中で何か浮いてしまうようなことがあれば、無実の罪を着せられる可能性だってあるわけで、これは他人事ではないと怖くなった。(終わり)


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