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第39回文学フリマ東京で売る本 製作日誌4

 仕事から帰ると、妻の原稿を読み指摘を入れる、翌日、妻は日中に時間を作り、私のコメントを踏まえて、原稿を加筆修正する。そして、仕事から帰ると私はそれを読み指摘を入れる。それを繰り返している。

 書いたものを良い原稿にするためのたった一つのやり方がある。書き手以外の人の目が入り、書き直しを何度も繰り返すことだ。作家にとって1番楽しい時間は、初稿を書き終えた僅かな時間だけであり、残りはこの地獄のような修正の時間が待っている。削ったり足したり、元に戻したり、繰り返えすうちに、たまにふと出てくる言葉は、琥珀のような輝きを放つ。
 当初、書き手が原稿の一文字目を書いた時、思い描いていたものとは全く違うもの。書くまでは、言葉にならなかった感触、印象がようやく言葉となって現れるのだ。
 完成した時は、これが自分の身から出たものではないような、書いたのではなく、本に書かされていたというような、実感の湧かないような、そういう距離感があるはずなのだ。

 妻はまだそれを知らないから、自分が最初に書いたものを大切にとっておこうとする。言い回しを整えたりし、却って味のない文章にしたり、削る必要のなかったものを削ってしまったり、また元に戻したり、私は辛抱強くそれに追走している。

 表面的なことが上手く書けて、材料を引き伸ばして、器用に書ける人をライターと呼ぶ。それは作家ではない。作家とライターの間には全く別の内的時間が働く、ライターは常に出来高を数字で捉え、かける時間を頭の片隅で計算し、効率良くこなすものだが、作家にはそれがない。ただ、自身の内側に眠る未知のことを引き起こし、問答し、体験することを繰り返しながら、新たな荒野を目指すものだ、その瞬間が現れる喜びのために書き続ける。兆候を感じながら、捉えそびれ、絶望するのが常であるが、それでもし続ける。ある作家は、その行為を「風呂桶の中に釣り糸を垂らし続けること」と表現した。

 学生時代、私は数々の偽物を見てきた。ある小説の文芸サークルでは、後輩の原稿に無責任な朱を入れる先輩部員がおり、"切磋琢磨"していた。作品とは別の人間関係やパワーバランスを気にして控えめになったり強気になったりするような、文豪気取りの山岳ベースキャンプ的なコミュニティだった。彼ら自身の書く文章は、とても読めるものではなかった。思い込みで書かれており、言葉の選びが迂闊で、人生を本当の意味で生きていない者が憧れから物語を紡いでいた、題材が陳腐だった。承認欲求の塊だったり、落ち着いた雰囲気を気取ってそれっぽく綴り、中身が空っぽなものもあった、つまらなかった。私も偽物の一人だったのかもしれないが、あれらよりはだいぶマシなほうだった。私は真摯に言葉と向き合ってきた。だからこういうことが書ける。
 それに、私は謙虚だった。他者の作品に見当違いで品性のない朱を入れて、偉そうに文学を語ってしまうほど、無知ではなかった。

 当時の私は、そのような集団とは距離を置き、文学だけに捉われず、映像、演劇、音楽など、分野を跨いで、作った作品に感想を言い合うような合評サークルを作った、ほとんど飲んでばかりいた。あれから、20年ほど経ったが当時の仲間とは今でも交流があり、皆それぞれの分野の第一線で活躍をしている。私たちのしていたことは正しかった。今回、文フリに出るのは、その時の仲間達とやる。

今、妻の書いている文章は、本物だと思った、ユーモアのある誠実な文章だった。ただ書きなれていないだけだと思った。


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