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第39回文学フリマ東京で売る本 製作日誌11

 2009年の8月末から9月半ばまで、当時はまだ籍を入れておらず同棲していた妻と二人で、インド旅行へ行った。
 妻は小さな映像制作会社で、過酷な働き方をし、疲れ切っていた。会社に長めの休みを貰ったため、私たちはこの旅行を計画した。
 私は、地方公務員となり終わらない悪夢のような毎日を過ごしたのち、一年で辞め、町の本屋で働いていた。地下のある2フロアの店舗で、チェーン展開はしていないが、外商にも力がある地域に根差した普通の本屋だった。その書店は今でも残っており、文化の発信地というようなブランディングに成功し、頑張っている街の本屋として、業界では有名になっている。

 書店での話をもう少ししようと思う。
 私は文庫を担当していた。書店業界では、本がほっておいても定期的に入ってくるから、ただ入れて古い本を返すだけ、というような比較的手当てが容易な棚などと言われているが、町の本屋では実際はそんなことはなく、情報は自分たちで拾わなければならなかったし、新刊は減数され配本は少なかったので、どう確保するかといういわゆる大型チェーンの書店とは別の観点が必要だった。それに、大型店よりも仕掛け販売でその店独自のロングセラーを作り出すことも楽しみの一つだった。
 筑摩文庫の『つむじ風食堂の夜』吉田篤弘、が思い出深い。"つけると売れる"という魔法のPOP提供の注文FAXが出回り、私はそれを取り寄せて設置した、すると本当によく売れ始めた。現在は代官山蔦屋にいる書店員の方が当時書いたPOPだった、カリスマ書店員というものを知った。当たり前のことだが、知らない別の書店にも私と同じように文庫担当が働いていることに勝手に連帯感を感じていた。それから、POPひとつで、本の魅力を引き出す技術があることを知った。

 本の文庫化は、単行本で充分利益が出ていれば更なる収益につながる前向きなものであるが、そうでもない本もあり、単行本でいまいち伸びず、それでも文庫化をする本もあった。それは刊行点数を維持するためだったり、文庫化後のメディア露出でヒットを狙っている場合だったり。

 前者の観点だと、古い本が定期的に新装版として復活することもあり、それらは、再版制度という独特な出版業界の自転車操業体質に起因していた。出版社は本を配本すれば、一度売上が入る、本は売れなくなってきているのに、年々、本の刊行点数が増え続けていて、書店の実務負担だけが増えているようにも思えた。しかし、一般書に限っては、返品が自由に可能なので、再版制度がなければ本として世に出せなかった本も多数あるのだろう、とも思った。

 書店の先輩から、私は自由に使える棚を一段もらった。そこで手書きPOPとともに、好みの本を置くコーナーを作らせてもらった。また棚一本で独自のフェアを行ったりと自由にやらせてくれた。自分の好きな本を紹介するとそれが、正しく売れることに喜びを感じた。
 それから、翻訳ものの外国文学が好きだったので、そのジャンルの文庫は、少し古めの既刊でも良い本は揃えて置くようにした。私が担当をするようになって売上がよく伸びた。一方、大衆小説は、気を抜くと在庫不足になるなど、そういった手当てに失敗をしたこともあった。山崎豊子『不毛地帯』など、唐沢寿明主演ドラマの影響でよく売れていたことを今でもよく覚えている。

 棚に出しきれない岩波文庫の不可動在庫が棚下に溜まっていた。それでも尚、営業担当はリストを送ってきて補充を催促をしてくるというスタイルだった。天下の岩波と言われているが、他社とは異なるその営業スタイルに出版業界の歴史を知った。
 広辞苑には、「出版人」という項目で実際に名前が上がっているのは三人だけで、野間清治、岩波茂雄、山本実彦の3名だけだという話を聞いたことがある。

インド旅行に話を戻すと、
当時はまだスマホも普及していない頃だったから、スマホ頼りにその場で情報を得ることはできず、地図は紙だし、事前情報と『地球の歩き方』頼りの行き当たりばったり感が良かった。道がわからなければ、出会う人に訊ねるという、まだ、プライマルな旅行が可能だった時代だ。
 なので、私たちも当然のようにした。往復の航空券と最初のホテルと空港の送迎のみだけで、旅行に行った。あとは行き当たりばったり。南インドに行こうということだけは決めていた、インドは北と南では雰囲気が異なり、南は人が優しく穏やかに過ごせると聞いたからだ。

 私は沢木耕太郎の『深夜特急』の影響を受けて学生時代にもインドに行ったことがあった、散々な目にあった。(私の大学時代の恩師は、深夜特急のインド編に登場しており、その中で、先生は靴の中の毒蠍をとったりと活躍をしている。)
 学生時代に行ったルートは、デリーからカジュラホ村を通ってベナレスに行くという北インドの定番コースだった。旅行者をターゲットにした物売りや詐欺、客引きも多い、行った日本人の誰もが嫌な思いをする辛いルートだった。しかし、私はインドが好きだった、徐々にスパイシーな匂いになる自分の体臭、けたたましいオートリキシャーのクラクション、人の多さ、砂埃と熱気、お香やガソリン、牛糞が混ざった独特な匂い、それら全てが五感に響き、濃度の高いインド特有の現実感が忘れられなかった。

 今回刊行する下記の私小説にも、2009年のインド旅行のことが少し書かれている。妻バージョンのインド旅行の話だ。

 私は今回の文フリでの本作りに伴いオリポピア(息子が昔住んでいたという星、オリポピアの話はまた改めて書くことにする)という遠い惑星の観光協会が地球人の暮らしを紹介するというテーマでブックレーベルを作ることにした。
 ロゴは、2009年のインド旅行の際に南インドのパナジ市でハンコ屋と仲良くなり、注文して作ってもらったマークだ。妻考案の動物が秘密を囁くというマークだ。元々牛ではない動物で発注したが、牛はインドでは聖なる生き物ということで、勝手に牛にアレンジして仕上がった。
 ハンコ屋さんの家にも招待され奥さんのカレーをご馳走になった。部屋の壁は深い紫色、インド的な配色だった。今となっては、私たちはあの時の日の刺す台所の風景を見るために、インドに行ったのかもしれないと思った。

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