第39回文学フリマ東京で売る本 製作日誌3
私の好きな作家の一人に車谷長吉という作家がいる。『贋世捨人』という作品が私のフェイバリットだ。叔母がシャンソン歌手をしており、学生時代に会場受付の手伝いのバイトをしたことがあるのだが、叔母のファンというある全国紙の新聞記者と話をする機会があった。文学を志していることを伝えたら、車谷長吉のことを教わった。その記者はその作家を「日本最後の私小説家」と紹介した。読んで感想文を送ってよ、と言われた。私はその翌日、早速『贋世捨人』を買って読み始めた。その内容に衝撃を受け、感想文など安易に書けるものではないと感じた。車谷長吉に恐怖と畏敬の念、憧れを感じた。この新聞記者は、私を試したのだと思った。当時の私にはとてもこの本の感想を書くことができなかったが、新聞記者の言いたかったことが私には伝わっていた。文学とはこういうことだと、その一冊の本を紹介することで私に伝えたのだと思う。
私は、日本文学は、この本一冊のみでいいんじゃないか、とすら思っている。風呂桶の中に釣り糸を垂らし続けることが私にはできなかった。
書店で『贋世捨人』を買った時のことを思い出したので書く。純文学の棚にはなく、店員に聞いたら、かなり探した上で、なぜか時代小説の棚に入っていた。直木賞受賞作家だからだろうか、それか、なんとなくタイトルと表紙の雰囲気で、時代小説だと思ってしまったのだろう。私はその店の文芸担当を軽蔑した。
また、その店にはひとつ怨みがあった。「贋世捨人」を買う一年前にその店は、アルバイトを募集していたのだが、当時、大学生だった私は、その店に履歴書を持っていったことがあった。店長らしき男は、ぶっきらぼうに私の履歴書を受け取るだけで、なんの返事も寄越さなかった。その時、私は髪の毛を染め、ピアスをしていたので、それが原因なのは間違いないだろう。私の目当ての本を確実に扱っているような書店が近所にはその店しかなかったので、アルバイトの応募のことは気にせず客として通っていた。
『贋世捨人』を時代小説棚に置いたその書店は昨年潰れた、原稿用紙が印刷された書皮を巻いてくれる良い書店だった。
私小説っていうのは、こういう本のことを言うんだよ、私は車谷長吉の本を妻に差し出す。「くるまたにちょうきち?」と著者の名前を読んだ、「ちょうきつ」私は訂正した。そのやりとりを聞いていた息子は、「うさぎ谷ぴょん吉?」とにやにやしながら言った。会話に入りたかったのだろう。
その時、私は、「え、」っと思った。車谷長吉をもじって、「うさぎ谷ぴょん吉」なんて、すごいセンスだと思った。嫉妬の感情すら芽生えた。既にその名前を使用して活動をしているYouTuberなどいないか、一応、Google検索をしてみたが、いなかったので、この発想は息子オリジナルのものだと確信し、本当に打ちのめされた。
車谷先生、家庭内の極私的なできごとではございますが、息子が車谷先生のことを「うさぎ谷ぴょん吉」とパロったことをお許しください。悪意のない子供のユーモアでございます。今我が家庭では、新しい文学のような何かが産まれようとしています。