自分を超えるということ

今日はNewsPicksの記事から。日本の社会保障制度について、衆議院議員の小泉進次郎氏に対するインタビュー記事があった。

セーフティネットとしての役割を理解する

──反省点のポイントはどこにありますか?
小泉 年金というものは、老後の人生全てを支えるものではないという、当たり前のことを言ってこなかったじゃないですか。
「老後の生活を支える1つの柱が年金だ」という基本的なことをね。
その結果、いつの間にか、年金は老後の全てを支えるものだと国民の多くが理解するようになってしまったのです。
このコミュニケーションギャップこそが問題です。
今回の問題で、私、象徴的で本質的な問いだなと思ったのは、蓮舫さんが「いつから日本は自助の国になったんですか」と山梨で演説されていたことです。

私はそれを見た時に、「ずっと自助だよ」と思いましたね。逆に、いつから自助の国ではなくなったのですかと思いました。
──国会議員でさえ、年金問題の基本を知らない、と。
小泉 まず「自助」があって、それでも難しい時に地域や社会の支え、「共助」がある、それでもどうにもならない時に、国や公が支える「公助」がある。でも、まずは自助だ。これが国づくりの基本でしょう。

個人的には小泉氏の考え方は至極全うだと思う。言及されていた「公助」の考え方については、僕も自助→共助→公助の順であるべきだと思うし、公助はセーフティネットとして存在すべきだとも思う。
(こう書くと「何を当たり前のことを」って感じなのだけど、、)

(この順番を前提として)何らかの理由で自助の網の目からこぼれ落ちてしまった人を「救うための仕組み」として、共助や公助があるのだと思う。だからこの順番をはき違えてしまうとお金がいくらあっても足りないし、「本来のセーフティネットとしての役割」が機能しなくなってしまうのではないだろうか。

しわ寄せはいつだって弱者と呼ばれる個人に及ぶ

少子高齢化、人口減少に伴い社会保障費は膨れ上がる一方だ。そのしわ寄せはいつだって「弱者と呼ばれる個人」に及ぶ。
弱者とは具体的には「子どもや高齢者、障がいを持った方々」のことを指す。
大切なのは、いかにそのことを具体的に想像できるかだと思う。それによって、日々の考え方や身の振り方が変わってくるのではないだろうか。

想像する機会

実際、自分や身近にそういった経験をした人がいないと、わからないことは多い。(つまり具体的に想像できない。)だから、こういった問題について頭で理解した気になっても、心では納得できなかったりする。
結果、具体的な行動にはなかなか繋がりずらい。(行動を伴わない知識は、本当の意味での知識ではないと思う)

こう考えていくと「想像する機会の有無」こそが課題解決する上で最も大切なことなのではないか、と思うようになった。そしてそれは当事者にしか持ちえない視点なような気もする。(そうだとしたら、とても辛いことだけれど)
当事者からすれば「なんで自分が」と思ってしまうようなことだけど、そうではなく「当事者である自分だからこそ」解決する機会があるのだと、気持ちを強くもつ必要があるのかもしれない。(それは本当に大変なことだから、当事者に向かって「そうすべきだ」と言うことは決してできない)

セーフティネットをつくるために

仕事でもなんでもそうだけど、結局は目線の高さがすべてだと思う。
自分や自分の家族のことだけ考えているのでは、こういった問題が起こった所でいつまでたっても「政府批判に終始」するだけなような気がする。
そうではなくて、上述した弱者と呼ばれる個人の痛みを具体的に想像し、(まるで自分事のように)課題意識を持てた時、本当の意味で目線を上げることができるのだと思う。それはきっと今の仕事への取り組み方や、「自分が本当にやるべきことが何なのか」について改めて考える良いきっかけになるのだろう。

選択肢は多い方がいい。目線を上げることができた時「自分が何をやるか」の選択肢はきっと増えると思う。そこで「これまでになかった選択肢」を選び、実行することができた時、人は自分を超えるのだと思う。

僕は弱く小さい人間だけど、本当の意味でのセーフティネットをつくるために、いつだって自分を超えたいと思っている。

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ダッチ
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