今川氏の滅亡
これ以上の損害を出したくない家康は、氏真との和睦の道を探った。
家康は以前、今川氏に仕えていた。その時の縁があるので、今川の領土を家康に渡した方が、統治もスムーズに行くだろう、ということだった。
家康と氏真の立場が完全に逆転していることが伺える。
北条と今川も、もとはといえば今川の客将が北条だった。救援のために駆け付けた北条氏からすると、信頼のならない武田氏よりも、徳川氏に統治をしてもらった方が、今川領が安心するだろう、と考えたこと、今川氏を無下にはしないだろう、という思いもあったかもしれない。
こうして、掛川城の争いは終焉を迎える。今川家、ここに滅亡となった。
これに対して、憤慨したのは武田氏であった。
しかし、家康はこの動きに動じず、上記のとおり和議を進めたのである。
信長は、信玄からの起請文に対して、家康に働きかけることはなかった。
しかし、この出来事のせいで、家康は、信玄から深い恨みを買ったであろう。
永禄12年、1569年。この時家康は26歳。信玄は48歳。
氏真とは和議を結ばない、と信玄と約束を交わしたにも関わらず、したたかに裏切った家康。
若気の至りか、強敵を怒らせる結果となってしまった。
この後に三方ヶ原の戦いで信玄に敗れ、あわや落命の危機にまで追いつめられることを考えると、この時の運び方を誤っていたのかな、と思う。