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『ショウタイムセブン』徹底的に漂白された“テロ”ライブが描いたのは、何だったのか?

割引あり

 映画を作るとき、特にストーリーが完全オリジナルでない場合において「映画」として何を描き出すかは、重要である。

 よくあるのは原作が小説の場合だが、それなら物語の核の部分をどう解釈し、何を映像化するか、ということが主体である。しかし、元々映画として完成された作品をリメイクするとき、それは原作映画への挑戦という要素を (製作者の意図がどうであれ) 多かれ少なかれ持たざるを得なくなる。それがかつて大ヒットした傑作なら尚更である。

 今回語るのは、2013年の韓国映画『テロ、ライブ』をリメイクした『ショウタイムセブン』

【あらすじ】
ラジオ番組に1本の電話。直後に発電所で爆破事件が起こる。電話をかけてきた謎の男から交渉人として指名されたのは、ラジオ局に左遷された国民的ニュース番組「ショウタイム7」の元人気キャスター・折本眞之輔。突如訪れた危機を番組への復帰チャンスと捉え、生放送中のスタジオに乗り込み、自らがキャスターとして犯人との生中継を強行する。しかし、そのスタジオにも、既にどこかに爆弾がセットされていたのだった。一歩でも出たら即爆破という中、二転三転しエスカレートする犯人の要求、そして周到に仕掛けられた思いもよらない「罠」の数々。なぜ彼が指名されたのか?犯人の正体と本当の目的とは?すべてが明らかになるとき、折本が選ぶ予測不能の結末。あなたは《ラスト6分》に驚愕する。

『ショウタイムセブン』公式サイトより引用

 原作映画の『テロ、ライブ』は2013年の韓国で、一日違いで公開されたポン・ジュノの『スノー・ピアサー』と興行収入を争うほど大ヒットした作品であり、日本よりも先に21年にインドで『ダマカ:テロ独占生中継(Netflix)』としてリメイクされた経緯もある作品である。

 今回の記事では『ショウタイムセブン』の素直な感想と軽い批評を前半の無料部分で、有料の後半ではさら突っ込んだ批評(批判も)を、より詳しく語り、韓国オリジナル『テロ、ライブ』との演出比較など、テンコ盛りでお届けします。

 さらに、この記事の内容を更に濃縮&アップグレードさせたものを、Youtubeのライブ配信にて後日語りますので、そちらも覗きに来ていただければと思います(詳細は近日中にお知らせいたします)。

 それではこれから『ショウタイムセブン』を四方八方から、考えあぐねたことを語っていく。最後までお付き合いいただければ幸いです。
(※この記事は、全編ネタバレ有りになってますので、ご注意ください)

■「本気を示す」が「映画的面白み」は、進展しない

 まず第一に、僕はオリジナル韓国映画『テロ、ライブ』が大好きである。近年、韓国作品が日本リメイクされる例は多々あるが、ここ最近では『最後まで行く』が個人的に、オリジナルに負けず劣らずの快作で嬉しかったことを覚えている。

 その期待もあり、大好きな韓国オリジナルをどういう日本的改変を加えて、料理するのかが非常に楽しみだった(同時に恐怖心もあるが……)。

 ざっくりと感想をいうと「韓国オリジナルが、元々無茶苦茶な話なんだから、原作を越えてさらに無茶苦茶にしてほしかった!」のが正直な感想だ。

 だからと言って駄作だと言いたいわけじゃない。

 この映画をどのような角度で見るかによって、その良し悪しが分かれると思うが、単刀直入かつ率直に “映画的な面白み” は、いまひとつだった。しかし現在、2025年の日本社会の風潮やムード、特に現在のテレビ業界が抱える大衆からの不信感からすると、社会批判にチャレンジした点も垣間見えてくる(それについては次章で語るが)。

 何に重きを置いて観るかで、今作の評価は大きく変わるが、僕としては日本映画にオリジナルを越えてほしい一心だったので、こうした評価になった。

 さて『ショウタイムセブン』が『テロ、ライブ』に比べて “映画的な面白み” が劣っていると述べたが、その最大の要因は、物語が展開するにつれて、面白みが先細っていくという点だ。

 この映画の最大の特徴は、密室で行われる爆弾魔と主人公のキャスター折本(阿部寛)との緊迫した会話劇であるが、そこに映画的な面白みを付与しているのは、いつどこで何が爆発するか分からない(物理的にも、感情的にも)という仕掛けと、爆弾魔の要求である「過去に起きた建設現場での事故への謝罪を政府のトップに要求する」という大きな二点である。

 『ショウタイムセブン』冒頭で、テロの標的となり爆破されるのは火力発電所であるが、対して『テロ、ライブ』で爆破されるのは、首都ソウルに掛かる麻浦マポ大橋である。

ソウル市麻浦区龍江洞と永登浦区汝矣島洞をつなぐ麻浦大橋(マポデギョ)引用:「ウィキペディア (Wikipedia): フリー百科事典」

 『テロ、ライブ』では橋が二度爆破され、逃げ場を失った数名の市民が取り残されるという展開があり、時間が経つにつれ橋の崩壊が進むという時限爆弾のような仕掛けが追加される。さらにその橋には、現場リポーターである主人公の元妻の姿(今作では、井川遥さんが演じていた)もあり、さらに緊張感は増幅される。

 ただでさえ、爆弾魔と予断の許さない張りつめた状況のなか、橋崩壊へのカウントダウンと、元嫁の安否という全く安心できない事態が主人公に伸し掛かり、最終的には、ある悲劇が決め手となり主人公は、犯人と対等に戦うこととなり、最後は衝撃の決断に至るのだ。クライマックスまで『テロ、ライブ』は、映画的な面白みの幅は広がっていく。

 しかし『ショウタイムセブン』は、物語が進行しても「犯人は誰なのか?」「総理大臣は謝罪するのか?」という当初の問いから、ほとんど物語も、主人公の感情も動かない。

 もちろん、登場人物の隠された関係性が明らかになったりはするものの、新たな危機が生れたり、緊張感の付与には至らない。火力発電所の爆発は、原作同様に二度起こるが、それは犯人の本気を示すための機能しか持たず、物語の流れに大きな効果を生み出さない。

 思い返せば犯人は、この『ショウタイムセブン』では何度も “本気を示す” ことばかりしていた。

 オープニングの掴みで火力発電所を予告通り爆破して本気を示し、女性キャスターのマイクを爆破してさらに本気を示し、犯人の恩師である初老の男性のピンマイクを爆破して、またまた本気を示し、もう一回火力発電所を爆破して四度目の本気を示した

 ここまで本気を示しても、映画が面白くならないという事態に、制作陣は爆弾を仕掛けられた今作の阿部寛同様に頭を抱えていそうだが、ここにさらに残酷な事実を明かすと、これが面白いことに爆破の回数やシチュエーションは元の『テロ、ライブ』と同じでなのである。

 原作に近しいシチュエーションと回数で、両映画の爆弾魔は本気を示し続けるのだが、なぜこうもオリジナルとリメイクで、面白みに差が出るのであろうか?

 そこには『ショウタイムセブン』と『テロ、ライブ』における演出の差を詳細に見ていく必要があるのだが、それについては有料記事の「生命力なき“テロ”は、リアリティを生まない」の章で語っていこうと思う(あこぎな!)。

■『ショウタイムセブン』最大の特色は日本的社会風刺である!

 前章では今作を少し辛口に語ったが、ここでは肯定的に語ろうと思う(結果的に肯定的かは、書いていくうちに分からなくなってしまった。なんかゴメン)。

 オリジナルの『テロ、ライブ』になくて『ショウタイムセブン』にあるのは、日本的な社会風刺アレンジだ。

 キャスターの折本が、テレビの前の視聴者に対し「Yes」か「No」の二択で採択を求めるの場面である。ワイドショーやバラエティー番組でよくある「番組への参加は、○○色のボタンからお願いします」というやつだ。

 これのどこが日本的な風刺になっているのかというと、視聴者に対して意見を求めるという行為は現在、個人から企業まで神経を尖らせて強く意識する「大衆の眼」に突き動かされてる、ある種の日和見主義的な姿が反映されている

 そんなのは世界中どこもそうだ、と言えばそうなのだが、これは完全に公開のタイミングに奇跡的に重なった事象に過ぎないが、この日和見展開には、どうしても現在進行中の中居正広の性加害事件に端を発した、フジテレビ問題を連想してしまう

 事実、今回の問題において週刊誌による問題発覚から、意識表明、完全部外者締め出し会見からの、十時間以上に及ぶサドンデス的記者会見まで、フジテレビの対応は悪手の連続と、世論と株主の外圧による後手後手で、最悪の日和見主義展開だった。

さらに「面白くなければ、テレビじゃない」は、かつてフジが掲げていたスローガンだが、この映画のクライマックスでは、折本が視聴者に向かって「今日の放送を見ていた視聴者のあなたも、このテロ事件に恐怖しながらも、心の奥底では『面白い!』そう思って、見ていたのではありませんか?」という投げかけをする。

 それ自体が、映画のスリルを味わっている観客と、普段ニュースを見ている観客とをメタ的に結び付け、「映画の方から大衆を批判した」ともいえる場面だ。

 この言葉には、一理ある。

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