#00 【連載 鬱エッセイ】『鬱のち曇り、ときどき、何か』はじまりは、鬱の自分観察から
X(旧Twitterって、いつまで言えば良いのやら)では報告していることだが、絶賛、鬱、真っ只である。
どれぐらい鬱かというと、映画化すれば全米が泣く程度には、鬱である。全米が鬱で泣くのだから、銃社会であるアメリカは、たちまち銃による自殺や事件が今以上に増加して(ちなみに2021年の銃による死者数は、事件、誤射、自殺など、丸々含めて約4万8000人で、史上最高記録なんだとか)、即合衆国政府は銃規制法案を可決させ、アメリカ建国以来の銃社会に終わりが到来するだろう。
ということは、僕の鬱物語の映画化は、長期的に見ればアメリカの銃社会の改善に繋がるのだから、鬱による自殺者数が映画公開によって増えたとしても、それは必要な犠牲として目を瞑り、映画化すべきではないのか?
その際、監督はぜひとも、アメリカを代表する破壊エンタメ映画の巨匠であるマイケル・ベイにお願いしたい。鬱々とした主人公(自分)の後ろで、車や建物が大爆発しておいてほしい。そうなったら映画の内容が全く鬱々しくなくなるだろうが……。ご連絡、お待ちしております。
話のベクトルを、真面目な方向に調整する。
この鬱状態が原因で、仕事をやめた。先週のことだ。
福岡での20年間にキッチリと悔いのないようケジメを付け(過去の記事を参照されたし)、新しい世界に飛び込み、人生を一緒に歩みたいパートナーとの未来も見据え、今まで好き勝手に生きせてもらった親への孝行の思いも多少あり、腹を括って地元の山口県岩国市へと帰ってきたが、結局はこの有様である。
未来への明るい希望と目的を持っていたにもかかわらず、こうも自分の精神と覚悟というものは、もろく崩れ去るのかと呆れ果て、絶望するところもあるが、そんな心に湧いた暗い渦に足を捕られては、さらに悪い方向へと自分を沈ませることになるという理性も、まだどうにか働いている。
その理性が働くうちに、またその理性を保つ気力を養い、伸ばすために、この記事を書いている。まだ機能している冷静な自分の視点から、鬱に呑まれ、一時的に破損された自分を観察し、救い出すというのが、この連載エッセイを書き始めた理由である。
よって、このエッセイは自分の鬱々しい部分を、凝縮して書くものであり、人様が読んで楽しいとか、前向きになるとか、社会へ向けて明るいメッセージを提供するものではない。
人が読むものであるという最低限の体裁を保つ努力はするが、それ以上に自分の精神衛生の回復と、救済を目的にしたものであることを、充分ご理解いただきたい。
あくまで、この記事内容は序文であり、本でいえば「はじめに」だとか「前書き」部分なので、今の自分の鬱状態を具体的に記述はしないが、今後の記事では仕事中に起きたことや、鬱の症状だったり、過去初めて鬱になったときとの比較などもして、自分と鬱との関係や、そこから見出せる生き方について、書き残していこうと思う。
いつ終わるかも、分からないし、いまは考えない。とにかくいまは自分を見つめていこうと思う。自分の経験が、誰かの役に立つとも思わないが、気づかぬうちにそうなっていれば良いな、とも思っている。
もしそうなっても、お礼の言葉も、謝意も要らない。ただ通り過ぎればよい。
【※注意】
本文中に書き忘れていたのだが、どこに追記していいかも分からなかったので、こういう書き方での追記になるが、この鬱エッセイはいずれ有料での公開に切り替える予定である。
それは自分の恥部を著しく晒すという、このエッセイの特性と、自分が曲がりなりにも物書きであるという立場とプライドの面からである。
とはいえ、家庭を圧迫するほどの料金にはならないし、この「#00」の記事を除いて、今後出すの記事は、公開時に一定期間は、無料で読める期間を設けるようにする。
なので、それ以降でこのnoteに出逢った方、再読したい方は、申し訳ないのだけれども、どうか僕にお賃金を下さいませ。
「金の為にやっているわけじゃない」というカッコつけと、「でも、金がないとどうにもならないでしょ?」という現実とが、まぜこぜの頭のまま、昼食を考える時間になった世界に、辟易しながら。
2024.06.21
【次回記事】『鬱が心に作り出す、「沼」』