#01【連載 鬱エッセイ】『鬱のち曇り、ときどき、何か』 鬱が心に作り出す、「沼」
2024年6月18日、鬱を理由に退職した。
これは僕の人生にとって、二度目の決断であるのだが、「二度あることは三度ある」ともあるので、それは絶対に避けたい。前回の記事でも書いたが、そのためにもこのエッセイを綴る意味は、個人的に大きい。
二度とも決して望んだ結果ではない。しかし、今回は不幸中の幸いというか、最悪を免れてはいるので、まだマシである。
僕にとって、一度目の鬱退職は大失敗だった。
詳細は長くなるので割愛する(いずれ書くとは思う)が、そのときは自分が鬱であるとも気づけず、症状が悪化しきった状態での退職だったので、そのあと社会復帰するのに一年弱も掛かってしまった。
その間の半年は、ほとんど引きこもり状態で、廃人状態であった(もっと重度の方は多いし、これでも軽い方だと自覚はしている。人によっては「そんなの甘っちょろい」と思うかもしれないが)。
一度目の失敗が功を奏し、今回の鬱退職は、徐々に症状の表れを察知できていたし、職場環境において状態改善の見込みもなく、悪化するばかりだったという危機感から、症状が軽度のうちに退職の決断ができた。
いまこうして文章で書けば、冷静に思えるかもしれないが、上司に退職を願い出るときは、大人げなく泣いたし、鬱を理由で離職することが、逃げるような気がして、恥ずかしいとも、薄情だとも思った。
鬱というのは、脳の状態変化が起因しており、気合や根性でどうにかなるものではないということが、近年は常識として捉えられつつある。
しかし、それを充分知っている僕自身も、著しい鬱状態になると、自身の弱さや力不足なところ、つまりは短所のみが、己の全てだと思い込んでしまう。それは、現在の外的要因(職場や人間関係)のミスマッチと、その状況を基に、脳が創りだす錯覚、誤った思い込みであると知っていてもである。
そういった状態になると、心の中に「ネガティブの沼」が発生する。
そして、この沼にハマると、なかなか抜け出せない。
この沼は、自分にとってネガティブな部分を、過剰なまでに受け入れてしまい、さらに拡大解釈して、心を搦め捕ってしまうのだ。
初めは、仕事の業務において部分的に失敗したことや、特定の人物とのコミュニケーションが上手くいかないことなど、限定的かつ制限された状況への不安感であったはずなのに、鬱が深刻化すると次第に、己の人間性全体への不安感へと移り変わる。
「あの時こうしなかったから、この仕事で失敗した」が、「私という人間が出来損ないだから、全て失敗する」になるのだ。
鬱が原因で退職したのなら、その職場を離れれば改善するだろう、と考える人も多いが、実は全くそんなことはない。
勘違いされがちだが、鬱状態で職場から離脱した者が、退職後は意気揚々とウキウキで、ビールとポテチで楽しいニート生活にしけ込むかと思いきや、現実はその全く逆であり、実際のそれは、冤罪で牢獄に捕らわれた囚人の様子のほうが近しいかもしれない。
薄暗く狭い部屋の隅で、独りうずくまり、自身を悲観し、嘆いている。といったイメージ(これも大きく自分の偏見込みだが)で、その状態こそが「ネガティブの沼」が作りだす、鬱状態になった人の姿である。
確かに、大きな原因である仕事は消え去ったので、一時的に精神は安定するかもしれない。「これ以上、あの地獄(=職場)へ行かなくていい」という安堵感は、瞬間的に訪れるかもしれない。しかし、そんなことで「ネガティブの沼」の効力は消え去ったりはしない。
いまの自分に起きている機能不全は、仕事をしている間に、徐々に喪失してゆく自信と、それに比例して積み上がっていく「仕事のできない自分」に対する嫌悪感や罪悪感のせいであることは、頭では理解できている。
理解こそできているものの、その感情は退職後も心の至る所に、こびり付いて精神を蝕み続ける。それこそが「ネガティブの沼」の最も厄介なところだ。
環境問題に例えるなら、原子炉から出る核廃棄物のように、原発を未来の安全のために止めても、そこから出た廃棄物汚染が、人類を苦しめるような状態に近い。
僕の印象では、この「ネガティブの沼」の力の強さは、個々人の「責任感の強さ」に起因しているように思う。自分に課した責任の強さの分だけ、この沼に心を捕られる時間も長い。
そして、責任感が強い人の中で「仕事」というのは、ただ生活のために、お金を稼ぐ手段ではなく、「己が何者であるか」というアイデンティティ問題に直結している。よって鬱状態で退職した者は、ただ無職になるのではなく、仕事というアイデンティティを失ったことによって、同時に自己喪失に陥っているのである。
さっきも書いたが、もちろん、大きな原因である仕事から離れるということは、症状を改善させる初めの一歩にはなるが、それはあくまで始まりに過ぎない。
退職は、これから必ず渡らねばならない「ネガティブの沼」の畔に到達したことに他ならず、いまからその沼をどう渡り切るか、ということの方が鬱との戦いでは、根本的な問題なのだ。
よって、鬱で退職する人々へ訪れる日常の世界は「もう自分は何者でもない」という喪失感に、自責の念と、罪悪感と、無力感とがセットで開始される、非常に酷なものなのだ。
もし何かの縁で、この記事に辿り着いた人がいるならば、鬱で職を失う人が、そうした世界をこれから生きていくのだ、ということを少し考えてほしい。
それは、あなたの隣に昨日までいた同僚かもしれないし、現在、あなたのそばにいる家族や恋人かもかもしれない。
願わくば、心を病んで自分という存在を喪失した人のそばに、あなたがいれるのだとするならば、ただ黙って傍にいてあげてほしい。言葉は要らない。しかし何か、どうしても言葉を投げかけたくなったときは、ただ一言「大丈夫」だと、伝えてあげてほしい。
根拠も、保証もなくていい。ただ「大丈夫」だと言い、寄り添ってくれるだけで構わない(もちろん、個々の関係性、状況次第ではあるが、鬱状態が重いときに、周囲に出来ること、当人が辛うじて許容できるコミュニケーションは、それぐらいが限界だろうと思う)。
最後になるが、知っていてほしいのは、「ネガティブの沼」は、どんなに長く時間を要したとしても、必ず乗り越えられるものだ。
どんなに辛く、困難に思えても、それは一度、鬱によってその沼にドップリ浸かったことのある、僕の経験から断言できる。
そして、「ネガティブの沼」からボロボロになりながらも、命辛々、抜け出したとき、あなたという存在は、鬱になる前の自分とは全く別の人間へと変容しているに違いない。
残念ながら、一度鬱になった者は、なる前の自分の姿に戻ることは決してない。風邪や癌ののように、原因であるウイルスや腫瘍を駆除すれば解決するようなものではなく、症状を寛解させ、それを保ちながら、鬱という厄介な性質を、背負ったまま生きていかなければならない。
もしかしたら、いまの僕のように、再び鬱の芽が心に芽吹き、それを摘み取ることに、奮闘しなければならないかもしれない。
しかし、鬱になっていればこそ、世界が違って見えるようになる。
心の禍を経たからこそ、他者への慈しみをより深く、より強くできるようになる。その優しさは、また別の誰かの為に活かせるようになるだろう。
せっかく鬱になったのだから、その経験から再構築された、新しい自分を大切にしてほしいと切に願う。
【あとがき】
前回の「はじめに」を除いて、最初の鬱エッセイの記事にして、気合が入り過ぎ、ボケもかまさずに、大真面目に書いてしまった。少し恥ずかしい心持ちである。
しかし、この記事を書きながら、徐々に自身の気分が晴れていくのが分かったこともあり、やはり書くことはセラピーなのだと実感している。
次回はもう少し、気軽さを持たせたいと思うが……。上手くできるだろうか。
2024.06.24