「少女へとなった老人」
今回はどんな過去を持っているのか見えない女性について。
まるで映画みたいな人物ですが、終末期医療に携わって実際にいました。
どうしてそうなったのか?
ということを書いていく前に、まずエピソードを書きたくなった理由について説明しておきたいと思います。
もちろん興味深いタイトルではありますが、それだけで書きたいわけではなく。ちゃんとした価値を書いてみたいと思っているのです。
医療現場で見たものは誰かの糧になってくれればと思って。
その人を思い出してみると、そのたびにほんっっとに不思議な気持ちを持ってしまう。それで書いてみたいと思ったのだが、つまりどういうことかというと。
みんなに愛されていた。
こう書くと特別な素質、有名人的な不思議な雰囲気があったのかと思われるかもしれませんが、全然そんなことはない。
むしろどこにでもいるお婆さんでした。
ただとても無邪気な笑顔だった。それはむしろ子供とか天使に近い無邪気さで。
ほんとうに無邪気だったのですが、この無邪気さについてはあとで解釈を書こうと思います。
まずはどんな暮らしをしていたか、
それでは「過去を失った女性」について始まり、始まり。
※ぼくは医療に従事していて、そこで見てきた経験を書いています。
この患者さんとの関わりは7年前、先輩から引継ぎでした。
その頃、ちょうど在宅医療をメインに稼働している店舗へと異動になったときで、いきなり先輩から「担当を持ってみよう」と言われた。
いや、完全に会社の都合じゃないかー、と思った。
焦りながらも、まあ「わかりました」と返事をしました。そして数日後、アパートへ連れていかれた。
一応、やりやすい患者さんを選定はしてくれたようで、難しいことはなく、ただヘルパーさんに説明をすればいいということです。
10月8日とかだったかな。
初めて郊外にある古いアパートに連れていかれたのですが、その階段を上がりながら簡単な説明を受けました。
「鍵は閉まっているから、鍵を持っているヘルパーさんがいる時間にしか入れないよ」
「そうなんですね、このメモに書いてある時間になら入れるということですね」
そこには、朝・昼・夕の決まった時間に毎日3回必ずヘルパーさんが訪れていると書かれていました。
「そう。それと老衰と認知症で本人は喋れない」
なるほど、会話もできないのか。
「あとはヘルパーさんに薬を渡して説明をするだけのお宅だから」
そしてアパートの部屋に入ると、そこにはおむつや栄養剤などの日用品が積まれているだけで、あとは壁際にベッドがあるだけでした。
どう表現したらいいのか分からないですが、ニュアンスだけで伝えるなら、エヴァンゲリオンに出てくる綾波レイの部屋みたいでした。
見た目は普通のアパートですが、生活をするだけの部屋。ほんとうにそこには生活に必要なものしかありませんでした。
「どうして、こんなところに一人で住んでいるのですか?」
あとで先輩に聞いてみると、「生活保護だから、家はもてないし安いアパートに住んでいるのだろう」とのこと。
本当に生活をするためだけの部屋だったのです。
彼女の思い出に関する写真もないし、本人に何を聞いてもニコニコと何も答えてはくれない。
どうやって暮らしてきたのか、それまでにどんな経験をしてきたのか一切の形跡が見えない部屋でした。
いつ訪問をしてもただヘルパーさんに世話を受けている老人がいるだけです。
そういった光景が続きました。
それから一ヶ月に2回訪問をしていき、ちょっとずつ余裕を持てるようになっていきました。
ある日、
「こんにちは」と挨拶をしてみると、「こんにちら」と本人から返事がありました。
「あれ、喋れるのですね。」
ぼくはヘルパーさんに聞いてみました。
ヘルパーさん曰く「調子がいいね」とのこと。
ふと「ご家族さんとかはいないのですか?」とヘルパーさんに聞いてみると、「たしか息子さんはいるはずだけど、生活保護だしね。私たちも会ったことがないのよ。」とのこと。
それから十年が経って。
今振り返って思うのですが、あそこまで愛されていた方は滅多にいませんでした。
だいたいの介護において、どうしても他人が世話をする上で認知力の落ちた老人は「それはいやだ」と拒否をしてしまうからです。
それは悪意はありません。子供が苦い薬を飲まないのと同じ、ただ気乗りしないのだ。
そして認知症というものについての説明をしておくと、アミロイドβという老廃物が溜まって、特徴的に機能を少しずつ失っていくのです。
よくあるのは記憶障害や見当識障害や実行機能障害。症状が進んでいくと、それ以外にも色んなことがでかなくなっていく。
「数分前のこと」、「数日前のこと」、「数年前のこと」と思い出せない領域は過去へと徐々に増えていく。
そして最後には自分の名前も分からなくなる方もいました。
こうして考えると、すべての人が認知症やボケていくとは限らないけど、自分の本質をできるだけ優しいものにしておけば穏やかな老後が過ごせるのかなと思うのでした。
そしてこの人の場合、そうだったのです。
どういった暮らしをしてきて、それまでどんなことをしてきたのか一切分からないけど、そこには残っていたのです。
写真も、記憶もないけど、みんなが見ていた老人こそがが、あの方の少女時代だったのです。
もうあの部屋から何も窺い知ることはできなかったけど、天使みたいにニコニコと微笑んでいた女性こそ、脳に刻まれた過去で、失われた少女時代が戻っていたのだと思う。
だから僕たちも、そのお婆ちゃんとまではいかないけど、できるだけ早くから、この世界にニコニコといられるようになった方がいいと思うのでした。