ソ連MSX物語⑭さらばMSXの仲間達・そして新たなる道へ
1991年はソ連が崩壊した年でした。しかしそれは同時に長く苦楽を共にしたMSXの仲間達のとの別れをも意味していました。
父はソ連との提携終了の事後処理のため、ほぼ1年に渡ってアゼルバイジャンに滞在しています。
それまで死んだ魚の目の様だった労働者たちが「自分たち、そして母国のために」と働く姿は眩しく見えたそうです。それはソ連共産主義の呪いから解き放たれた人々の本来の姿だったのでした。そんな折、MSXの仲間達がささやかな送別会を開いてくれたのでした。
宴会はチームMSXのメンバーのその後の進路について盛り上がります。皆その後の人生をMSXとの出会いによって決断したと語るのでした。
「私は新設される工場の現場責任者に任命された、これも日本の同志のおかげだ。」
この件は前回お話した、父の後見人だった工業省副大臣・グセイノフ氏に父が推薦したのでした。
「これからは君達が独力でやらねばならないが、工場のレイアウト構図や設計の資料は渡してあるはずだ。」
父は日本から長年に渡る業務資料を送ってもらい、寄贈していたのでした。それは彼らの独立に対するはなむけだったと言います。
「私は国立大学のコンピューター研究者の道に進むことにした。MSXで学んだ技術を追求したいのだ。」
彼はその後東京大学に留学したグセイノフ副大臣の甥と同僚となり、大学教授としてアゼルバイジャンのIT技術の礎になったと言います。
そして祖国へ亡命した父の親友だったユダヤ人、ゲンナデの後任にはチームMSXのエースだったグセイノフが任命されました。これはバクーで最も大きな工場の実質№3という重責のポジションです。「設立から私が携わったこの工場の未来は君に掛かっている、しっかり頼んだぞ。」
グセイノフの身の上については前回お話しましたが、彼は父の人生で1000人以上関わった技術者の中で最も天才的な人物だったと言います。父の持論では技術者の基礎能力は数学が最も重要なのだそうですが、その点においてグセイノフは天賦の才を持っていました。とにかく計算能力が桁違いで、脳内でプログラミングを組むことができたのだそうです。
「私はMSXに出会う前は足を引きずりながら街の清掃員をしていた。数学の師匠であるゲンナデと貴方がMSXの仕事に推薦してくれなかったら、今頃私はケガを悪化させ障害者収容施設で寝たきりになっていたかもしれない…」
グセイノフは高所からの転落事故の際、ソ連の病院の悪癖である「たらい回し」の憂き目にあい、足に障害をおっていました。ソ連政府は働けなくなった者たちに冷淡で、非人道的な収容施設で社会から隔離していたのです。
「ソ連では障害者は結婚も許されない、将来を悲観して自殺も考えたこともあります。救ってくれたのは貴方とMSXのおかげです。」
しかし静かに父は微笑みました
「違う、それは努力した君の正当な権利なのだ。私の世界では当たり前のことだ。」
父は握りしめた手に力を込め、こう述べました。
「そして君の国も必ずそうなる。」
感極まった彼は父を抱きしめ、熊の如く嗚咽するのでした。
宴もたけなわになったころ、グセイノフは父に語りました。
「私はソ連という国がどうしても好きになれませんでした。しかしこれからは祖国アゼルバイジャンと家族のために人生を捧げようと思います。」
そして真剣な眼差しで父に問うたと言います。
「しかし何故貴方は、縁もゆかりもない我々にここまで尽くしてくれたのですか?」
父もまた真剣に答えます。
「日本が築き上げた最高の技術を君達に伝える。それが私の祖国の愛し方だからだ。」
しばしの沈黙の後
「貴方こそが真の英雄(герой)です。」
その言葉を聞きつけ仲間達が父を囲みます
「日本からの英雄に乾杯だ!我々からのささやかなお礼だ、受け取ってくれ。」
すると吟遊詩人達がアゼルバイジャンの民族音楽ムガームを朗々と歌い始めます。それは遥か東方から来た英雄が、祖国を圧政から救うという物語。この日の為に彼らが用意してくれたのでした。
動画はあるバクーのレストランでの演奏。ちょうどこのような感じの演奏だったそうです。
ムガームはアゼルバイジャンに古くから伝わる民族音楽で、感謝の物語を即興の唄として贈る文化があるのです。
父は当初労働意欲に乏しく無責任なソ連人を軽蔑していたそうです。一方で彼らも典型的な日本型企業戦士である父のやり方に反発していました。しかし最後はそのような分断を乗り越え、深い友情を結ぶことが出来たのでした。
「自分の仕事がこのような形で完結したことは生涯での誇りだ」
父はそう総括しています。
そしてその年末、父がホテルで帰国の準備をしていると、窓の外で花火が打ちあがり歓声が聞こえてきました。アゼルバイジャンがついに国家独立を宣言したのです。TVを付けると辞任演説に臨むゴルバチョフの姿が。それはまさにソ連の崩壊の瞬間でした。
「アゼルバイジャン、いや世界中の人々にクリスマスプレゼントが届いたようだな。」
時は1991年12月25日、父は冷戦に勝利した実感をアゼルバイジャンの地で迎えたのでした。
しかし父には一つだけ心残りがありました。それはイスラエルへ亡命した親友、ゲンナデの消息についてです。ところが後年、思わぬ場所で彼のその後を知ることになるのでした。
次回ソ連MSX物語、いよいよ最終回です。
追記 父の最後の旅・青春の地ロシアへ
父はその後国際検査技師として活動し、2019年75歳で引退しています。キャリア最晩年の2017年にエカテリンブルクで開催されたロシア最大級の国際総合博覧会イノプロム、そしてウラジオストックで開催された東方ホーラム2017第三回大会に日本政府のオブザーバーとして参加しています。特に東方ホーラムは当時の安倍首相がスピーチを行い、河野外相、世耕経産相、加藤厚労相、松山IT政策担当相など錚々たるメンバーが乗り込んだ大掛かりなものでした。
ここでは詳しくは書けないのですが、父は日露友好のためかつてのコネを総動員してロシア側の高官と接触、ロシア側の真意を探っています。その詳細な報告書の作成が人生最後の大仕事となりました。
しかしそれらの努力は徹底して裏切られます。2022年2月24日、ロシアはウクライナへの軍事侵攻を開始したのでした。
現在父は反戦在日ロシア人団体を支援する活動を行っています。ロシアの蛮行は断じて許されるべきではありませんが、それに反対するロシア人も数少ないながら存在することを知って頂ければ幸いです。父の2017年の報告書の最後の一文を引用してこの章を終わりたいと思います。
私はロシア民族が何時の日かプーチンの様な独裁者を跳ね除けて、民主主義のベースとなるロシア風の道徳規が確立される事を期待している。