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ソ連MSX物語⑬ソ連崩壊を目撃・冷戦に勝利した技術者たち
「独立だ!」
「もうロシアの連中の言いなりになるのは真っ平だ。」
怒号が飛び交うバクーの拝火教レストラン。1991年4月6日、既に1年前にリトアニアがいち早くソ連から独立を宣言した後のことです。父の担当工場の従業員たちも平然とアゼルバイジャンの独立を叫ぶようになりました。わずか二年前のベルリンの壁崩壊以前には考えられなかった光景です。
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父が初めてアゼルバイジャンに赴いたのは1971年のことでした。この時期はソ連中央政府の管理下にあり、工場の要職は全てモスクワから派遣されていたロシア人官僚が独占していました。前回のお話で出てきたKGBに密告したと思われるイタチとあだ名された副工場長はその筆頭格で、現地人にも彼に取り入る人が多かったのです。彼らは陰で『イタチ一家』と揶揄されていました。
『イタチ一家』はソ連共産党の威光を笠に着て工場の実権を握っていました。既に亡命していたユダヤ人のゲンナデや、足に障害を持つグセイノフを散々にいじめている光景に父は心を痛めていたのです。
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こんな何にもない所で1年以上父は滞在していたのでした。
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現地に溶け込むのが父のポリシーでした。
しかしソ連中央政府の威信が低下すると副工場長はいち早くモスクワに逃走。『イタチ一家』の面々は復讐の矢面に立たされます。居場所を失った彼らは住み慣れた故郷を捨て、近隣のジョージアやモスクワに逃れて行かざるをえませんでした。訪ソするたびに「災いと懲罰あれ」「イタチのチンポ野郎」と落書きされた空いた作業机を父は目撃しています。
「いつの時代も裏切り者の末路は哀れだな。」
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父は時代の流れの残酷さをまざまざと実感していました。そのうちにMSXチームの演説が始まります。
「かつて私達はネジの一本を作るにもクレムリンの連中にお伺いをたてなきゃならなかった。しかし今は違う!」
「日本の友人のおかげでソ連国内の工場の中でも俺たちはトップクラスにまで成長した。もう指図は受けん!」
それを聞いた父は「よく言うよ」と苦笑します。かつて「真面目に働くのはバカのすること」と怠けていた頃の彼らを知っているからなのでした。しかし父は思い直します。
「いや、かつての彼らはソ連共産主義の呪いにかかっていたに過ぎなかったのかもしれん、今の姿が本来なのだ。そのきっかけは・・・やはりMSXだったのだな。」
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20年に渡るソ連プラント事業を父は感慨深く噛みしめていました。はっきり言って冷戦時代のソ連は日本にとって仮想敵国でした。その敵国を利する仕事に従事しているのではないかという葛藤を、父は常に抱いていたのです。親族の中にも満州からの引き上げ組がいて、父の仕事を非難していたこともあったのでした。
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しかし1985年のチームMSX結成のあたりから流れが変わってきました。父の会社の提携先のアゼルバイジャン・リトアニア・ウクライナなどのソ連構成国が工業的実力をつけることで、彼らの独立心が芽生えてくるのではないか・・・しかしあくまでそれは淡い期待に過ぎませんでした。強固な冷戦構造は暫くは崩れないというのが当時の常識だったからです。
「彼らチームMSXの面々が技術者としての矜持を取り戻したことに私は一縷の望みをかけた。しかしまさか生きている間にソ連の崩壊を目撃することが出来るとはな・・・」
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それは武力を使わない戦い・・・西側陣営の一人としての日本技術者の矜持なのでした。そしてスピーチの順番が回ってくると、父は静かに語り始めます。
「私はあの忌まわしき戦争の焦土の中に生まれた。技術で敗北した日本は技術立国として蘇ることを誓ったのだ。」
会場は静寂に包まれました。
「その培った技術を伝えることが私の使命だった。そして今、きみ達は新たなる旅立ちの時を迎えようとしている。」
そして父はアゼルバイジャンワインのグラスを高々と掲げました。
「それを祝わない友がいるだろうか。アゼルバイジャン万歳!」
会場は歓喜に包まれ、次々と仲間達が抱きついてきます。しかしそれは彼らとの別れを同時に意味してもいました。父の会社の契約先はあくまでソ連中央政府だったからです。しかし父はこう回想しています。
「自分の仕事がこのような形で完結したことは生涯での誇りだ」
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戦後を生きた技術者たちは皆同じ想いを抱いていたと父は述べました。
この4か月後の1991年8月30日、アゼルバイジャン共和国は独立宣言。同年12月25日付でソ連邦は解体され地球上から消滅しました。父は冷戦を勝利した実感をアゼルバイジャンの地で実感したのでした。
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これは業務を仲介した丸紅のお偉いさんとの会食の物。
この宴会の後・・・父を長らく支援してくれた工業省副大臣・グセイノフ(障害者の同名とは別人)が握手を求めてきました。
このグセイノフ氏は父がソ連時代に築いたコネクションの中での一番の大物です。彼はれっきとしたソ連共産党の幹部で、所謂ノーメンクラツーラ「赤い貴族」と呼ばれる支配階級側の人間でしした。しかしその裏の顔はアゼルバイジャン独立運動の中心人物なのでした。父は個人的交流や宴席での発言から、うすうすその正体に気が付いていたと言います。
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父の担当工場ではグセイノフ氏と現地人の工場長のグループと、前述したロシア官僚の副工場長「イタチ氏」のグループとの間で激しい権力闘争が繰り広げられていました。
そもそも父の会社の提携先はソ連政府なのですからグセイノフ氏は本来は敵対する人物の筈です。しかし祖国の将来を真剣に憂う彼の熱意に、父は図らずも惹きこまれていったと言います。
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父はこの時信用できる友人の日本の中古車ディーラーを紹介したが、マージンは一切受け取らなかったという。このことが大きな信頼につながった。
この物語で父は外国人にも関わらず一工員に過ぎなかったゲンナデを品質管理の責任者に据えたり、街の清掃員であった障害者のグセイノフをチームMSXのエースに抜擢するなど、無茶苦茶な人事を押し通すことが出来たのは彼の支援があったからなのです。
しかしソ連で反政府運動側に加担することは極めて危険な行為でした。父はその報復として「イタチ氏」にKGBに密告され、尋問を受ける憂き目にあっています。前回参照
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「素晴らしい演説だった、本当に君は我が国に長年貢献してくれた。そこで相談なんだが今後我が国に残って工業省の技術顧問になってもらえないだろうか?ギャラは今以上を必ず保証する。」
父は微笑みながら答えました。
「ありがとうございます。しかし申し訳ない、私は貴方と同じぐらい祖国を愛しているのです。」
「君ならばそう言うと思ったよ。しかし我々の友情はこれからも変わることはない。」
副大臣の言葉には嘘はありませんでした。その後彼はモスクワ鉄鋼合金製造大学に在籍していた自分の甥を東京大学に留学させることになります。今後のアゼルバイジャンはロシアに依存する体質を改め、西側と協調する方針に転換するためでした。
我が家はこの甥の日本での身元保証人になり、その友愛を深めることになります。
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今でも我が家では「父がアゼルバイジャン政府の技術顧問になっていたら」と言う話が持ち上がります。もしそうなったら僕はオイルマネーによるボンボン息子になり、世界初のMSX博物館をバクーにおったってていたかもしれません。