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地方新聞コラムから始まる豆腐屋と祖母と銭湯の記憶

先日机の本棚を整理してたら出てきた綺麗に折られた新聞のコピー。
あれっなんだっけと思い開いてみると叔母が2年ほど前に送ってくれた地方新聞のコラム欄。
今日はこの新聞コラムをきっかけにした回想について…。


地方新聞コラムに祖母のことが

あーそういえば叔母が自身の母(私の祖母でもある)のことを幼なじみが寄稿してくれて嬉しかったとメモをつけて寄越したのを思い出した。そのときは目を通して本棚のファイルにしまい込んだっけ。

令和4年5月11日富山新聞から

寄稿した方とのご縁と祖父母の商売

寄稿されたのは女優エッセイスト室井滋さん。私と同じ富山のご出身で私の叔母とは同い年の幼なじみだ。

私の実家(生家)は旧宿場町の街道沿いが商店街に転じた所にあり、祖父母は当時豆腐店と唐津物店※を営んでいた。ちなみに私の家は祖父母、叔母、父母、弟と私で7人家族。
唐津物からつものは焼き物・陶磁器の総称(西日本での言い方のようです)、地元での呼び方でした

豆腐作りは祖父母が毎朝暗いうちから開始して6:30頃には朝ごはんの味噌汁に入れる豆腐を店頭売りしていた。だいたい朝は大豆を蒸した熱気とその香りが店先まで充満していたのが記憶にある。

ちなみに豆腐の種類はいろいろあったが、絹ごし豆腐の場合、作り立てを大まかに切り分け水槽に沈めておく。お客さんはボウルの器などを持って来店、その都度水槽から豆腐を手で取り出し大きな包丁で希望によってはさいの目にまで切って持参された器に入れて渡すスタイル。

私が結婚した当時、叔母の配慮で室井さんからお葉書をいただいたことも思い出した。私の田舎では豆腐のことを"とっぺ"と言ってウチの商売のことを地元では"とっぺ屋"(超ローカルな方言で豆腐屋のこと)と呼んでたのがなんとなく記憶に残ってる。葉書には「私のこと覚えとっけー、とっぺ屋よく行っとたよ、あんちゃん大きくなったんやね、結婚したがやねー」って富山弁で書いてあった💦

それでは投稿はどんな内容か

コラムの内容を要約すると室井さんが地元富山の女性セミナーで講演され、富山の女性は共働きのなか世界一睡眠不足…との話しで始まり、ついでに幼少の頃にお書きになった作文を思いだされたという文脈。前半も興味深い内容だが、ここは作文のところだけに注目願いたい。

囲った部分が祖母のこと

その作文とはまさしく祖母のことが書いてある👇

拡大しても読みずらいので転載します。

あれは同じ町内でお豆腐屋さんを営む友達のお母さんのことに関してだった。
商店街で一番早起きさんは誰?・・・という所に着眼し、子供ながらにあれこれ考えた。
「一番早起きは魚屋のおじさん。いやいや、それより早いのはパン屋のおばさん。あれっ、新聞配達のお兄さんや牛乳のお姉さんはもっと早いかも。ううん、本当はね、町一番はお豆腐屋のおばさんながいちゃ~」
こんな風にきっと書いたと思う。
お豆腐屋のおばさんは町一番の働き者の上、とても親切な人だった。
銭湯に毎晩行くと町中のお年寄りの背中をせっせと流して回って、常に自分のことは後回しだった。「いつも、仕舞しまい風呂になって」と、番台の奥さんが気の毒がられるほど。なのに朝はまだ暗い内からお豆腐作りに励んでおられると評判だった。
夏休みに友達の家へ泊りに行ってこの目で真実を確認し、ありのままを綴ったのだっけ。
世界一睡眠時間の短い町で、誰よりも働き者の友達のお母さん。
「間違いない。おばさんたら、ちっとも寝てなかったんだねぇ」
休むことなく勤勉な彼女の姿はとても清々しく、今もこの胸に刻み込まれているのでありました。

令和4/5/11富山新聞 室井滋 瓢箪なまず日記から一部転載

私の祖母の記憶

ここではまず私の祖母について。祖母は祖父が前妻と死別した後、後妻になって祖父のところへ来た…叔母は祖母が産んだ子だが、私は祖母と血の繋がりはない。(ちなみに前妻の長女が私の母)

祖父が無口な人だったこともあるが、祖母はお客さんや近所の人とよく世間話しをしていた印象だ。そして室井さんの印象と同じく誰にでも笑顔で接していて愛想が良くて親切。室井さんの書いている人物像そのもので私と弟を大変可愛がってくれた。

祖母が亡くなる直前、富山市内の病院に入院していてお見舞いに行った。肺の疾患でとても息苦しくずっと横になっていながら私が帰るときには病床から「ありがとう」と声は出せなくても私に会釈していた。病気で苦しいのにも拘わらず自分より人を気遣う姿が目に焼きついてる。

銭湯と祖母の思い出

室井さんが書かれた銭湯、昭和50年代初めまで家にお風呂があることは珍しく近所の人もほぼ銭湯へ通っていた。銭湯は商店街の中ほどにあり、小学校低学年だった私は近所の友達と銭湯が始まる15:00に一番風呂を目がけ乗り込んでいったことを思い出した。

商店を営んでたり会社勤めの人は夕ご飯を食べてかたずけが終わった20:00~21:00頃に家族あるいは各々好きな時間に銭湯へ行っていた。

祖母は遅い時間に一人で銭湯へ出かけることが多く、更に帰ってくるのも遅かったと思う。なるほど人の背中を流したりした名残りならそれも頷ける話しだ。コラムの年代ではまだ若かったであろう祖母は銭湯でのお年寄りのお世話が息抜きだったのかもしれないっておもんばかったりした。

尚、コラムにある「・・ちっとも寝ていない」ということは私の物心ついた時は無かったが、とにかく朝から晩まで豆腐屋に家事によく働く人だったということは間違いない。ちなみに私の父母は共働きで食事は祖母が作ることが多かった。

心がほっこりと..感謝

それにしても室井さんのコラムを読み返すと私の祖母のことをそのような印象で見てた人がいたことが驚きで私も正直嬉しくて心がほっこりとした。。

祖母と一緒に銭湯に浸かった思い出は無いから、室井さんの書かれている人の背中を流してたことはちょっと知らない一面で新鮮、だけどおばあちゃんらしいなぁとも思って納得、また室井さんが家に泊まりに来たことも初めて知った。

これを書いていると不思議と祖父母のこと実家(生家)の記憶が次々と呼び起される。それら全部書くと支離滅裂になるので止めておくけど久しく帰っていない富山、そして実家のあった懐かしいあの町に帰ってみたい…。

室井滋さんと知らせてくれた叔母に感謝です。

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