【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第76話-やまない雨の季節〜理美の雨

 見たくないものを見てしまった。中学1年生の高島理美は、雨の中足を止めた。
 傘を持つ手が震えている。その視線の先には相合傘の二人がいた。
 北村貴志と坂木紗霧。
 理美は初恋の相手が、自分の恋を実らせたことを、その時知ってしまったのだった。
 告白は、どっちからしたんだろう。
 ぼんやりとした頭で考えたのは、そんなどうでも良いような事だった。だけど、どうしようもなく気になることでもあった。
 坂木さんをを焚き付けたのは私なんだから。自業自得よね。
 後悔の念が押し寄せてくる。だけどそれもどうでもいい事だった。
 坂木紗霧を焚き付けてしまう前に、貴志はすでに想い人がいると宣言していた。その相手が理美ではなかったのだ。
 紗霧との駆け引きも何もかも無駄だった。もう何をしても理美の初恋が叶う事はないのだろう。

 だけど絶対に泣いたりなんてしないんだから。
 理美は傘の下で涙を拭くと、満面の笑みを作り上げた。
「あれ?北村くん?」
 理美は相合傘の二人に近づくと、平静を装って声をかけた。

 唐突に声をかけられて、紗霧の手に力がこもる。それは貴志が傘を持つ手に重ねた手だった。
 聞き覚えのある声の主を傘越しに確認すると、思った通りの人が立っていた。高島理美。
 貴志の手に重ねた手を、紗霧は一層強く握りしめた。不安な気持ちをかき消すように。そして貴志を攫われてしまわないように。

 相合傘の下で、ひとつの傘を仲良く支える二人の手が見えた。
 もうこれで、片方が傘を忘れたなんて言い訳は聞くことができない。
「おめでとう。王子様を射止めたお姫様は、坂木さんだったんだね」
 その言葉を聞いて紗霧がさらに身を固くした。理美の瞳からのぞくのは暗い嫉妬の炎。
 祝福の言葉がまるで呪詛のように聞こえるのは、同じ人を好きになった者同士だからか。
 理美の笑顔が、紗霧の不安を掻き立てる。こんなにも人を不安にさせる笑顔を、紗霧は見たことがなかった。
 わざわざ声をかけてきたのはどうしてなの?
 
 紗霧の心中の問に理美が答えた。
「ただ羨ましかっただけだよ。北村くんの隣にいられる坂木さんが」
 そう…羨ましいだけ。理美は気を抜くと目から溢れてしまいそうな感情の雫たちを、無理やり瞳の中に押し込んで、笑ってみせた。
 紗霧と二人で話した時、すでに決着はついていたのだ。理美は、貴志を想う気持ちの強さで、紗霧には敵わないことに気づいてしまった。
 最後に願った奇跡も起こらなかった。北村くんの好きな人が自分である事へのわずかな期待も、見事に散ってしまった。
 もう理美にできることはひとつしか残されていなかった。

「私も北村くんが好きだったから、本当に羨ましい」
 想いに応えてもらうためではない。ただ独り言のように気持ちを伝えて、思いっきり振られてやるんだ。
 そのくらいの意地。そのくらいのちっぽけなプライド位は許してよね。
「私も北村くんの彼女に、なりたかったなあ。
 二人目とかどう?」
 理美の言葉に紗霧が嫌悪の顔を覗かせる。
 そんな顔しないでよ。本気で奪いたいわけじゃないんだよ…たぶん。
 あわよくばと思わなくもないけれど、今はただすっきりしたい。もし「あわよくば」なんて展開になったとしたら、そんな軽い男に用なんてないんだから。

 紗霧は嫌悪の表情を崩さなかった。たぶん逆の立場なら自分もしたであろうことを、理美がやって見せてくれた。
 二人目…のくだりは言わないにしても、きっと残念な気持ち位は伝えただろう。
 女子たちの憧れを一身に向けられている貴志を好きになったのだ。その多くを泣かせる側か、多くの中で泣く側か…どちらか一方にしかなれないのだから。
 紗霧は貴志の顔を覗いてみた。理美からの好意を、貴志はどう返すのだろうか。
 一瞬貴志と目が合った。

 貴志は隣にいる紗霧の顔をちらっと見ると、理美に向き直った。
「ごめん…俺、高島さんがそんな風に想ってくれてたことに気づいてなくて」
 その言葉に紗霧が驚いた表情を見せていた事に、貴志は気づいていなかった。
 嘘でしょ…あそこまで露骨に好き好きビームでてたのに?
 理美が貴志に向けていた好意は、質量を伴って目に見えるほどだった。少なくとも紗霧はそう思っていた。鈍いにもほどがある。
「高島さんに会う頃にはすでに、坂木さんのことが…」
 貴志はそこで言葉を切った。いや…貴志の肩がふるふると震えている。
 紗霧は次の言葉を期待して、理美は聞きたくない言葉を覚悟して…貴志の顔を見つめている。
「坂木さんのことが…」
 貴志の顔は紅潮し、金魚のように口をぱくぱくとさせている。言葉を切ったのではない。言えないだけだ。
 そう言えば告白のとき以来、好きだとは言われていない。手を繋ぐと、心と心で何回も交わされていたはずの言葉だけど。
 そっか…告白のときは、ものすごく勇気を出してくれてたんだ。

 相合傘の下で見つめ合って、手を繋いで、あんなにも楽しそうに歩いていたのに。貴志は紗霧の前で「好きだ」の一言も言えない。
 きっと北村くんにとって、その一言はすごく大切な言葉なんだね。悔しいな。
 理美は貴志から見られてさえいなかった。その現実を静かに受け止めた。
 胸に秘めていた想いが、届きようもなかった事を知ると、目の端で堪えきれなくなった雫が流れ始めた。
 理美は傘を畳んで雨に濡れる。天を仰いで涙を雨で洗い流した。
 絶対に泣き顔なんて見せないんだから。
 そして再び笑顔の仮面をかぶる。いや、今度は満面の笑みではない。それは仮面ではなく、理美の本来の笑顔。
「悔しいなあ」
 これは本心。そして、次の本心は言わなくてもいいはずの言葉だ。
 だけど想いが届かないのなら、この恋がどう振る舞っても実らないものならば…。
 もう二人に幸せでいてもらう以外に、望むことは何もない。だから、嫌な女だって思われてもいい。
「坂木さんさえいなければ、可能性はあったのかな?」
 理美は地の底から入ってきたような低い声でそう呟いた。目には嫉妬の色を滲ませる。
 紗霧が全身をびくりと震わせた。貴志の手を強く握りしめる。
 紗霧が怯えている。貴志は紗霧をかばうように二人の間に立った。
 高島理美は何をするつもりなのだろう。紗霧は貴志の目配せで繋いだ手を離して、一歩後ろに下がった。
 場の空気が凍りつく。それほどまでに理美の声には、殺意がこもっていた。

 理美が一歩前に出る。貴志は紗霧をさらに一歩下がらせた。何があっても紗霧のことだけは傷つけさせないつもりだった。
 刹那。凍りついた空気が動き出す。
「あははははは」
 理美が腹を抱えて笑い始めたのだ。突然の哄笑に貴志は虚を突かれたが、警戒は解けていない。
「もう…坂木さんを守る気、満々じゃない。
 何もしないよ。私は…」
 理美が笑い終えた時には、黒黒しい嫉妬の目はもとの輝きを取り戻し、声ももとのトーンに戻っていた。
「私は、何もしないよ。だけど、みんながどうするかは知らない」
 そう言うと理美は紗霧の目をまっすぐに見つめた。
「私の初恋を奪ったんだから、ものすごく大切にしてもらうんだよ」
 理美の声は優しく、静かで、そしてわずかに震えていた。雨足よりも頬の周りの雫が早く滴っている。
 紗霧には、理美の涙がはっきりと見えていた。

 手を振って立ち去る理美を見送って、二人は大きなため息をついた。
 本気で…怖かった。貴志も刺されるんじゃないかと覚悟していた。

 最後の言葉の意味をこのとき二人は深く考えていなかった。
 その意味を知る日は、さほど遠くなかったというのに。

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