【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第35話-春、修学旅行1日目〜紗霧④
北村貴志という人を好きだと認識したのはいつだっただろう。後から振り返れば、そうだと思う瞬間は何度もあった。
初めて手紙をもらった時。林間学校の班長会議で遅くなった彼に偶然教室であった時。彼が忙しい母の代わりに、家事を毎日こなしていると聞いた時。
彼が山村裕と二人で、ふざけて笑い合っているのが見えた時。
だけど一番鮮明にあの時だ!と思い出せるのは、あの時だ。林間学校の夜。二人で見上げた星空。
「きれいな空だったなあ…」
思わず声に出してしまう。その微かな呟きは店の喧騒にかき消されて消えていく。
思い出は、過去の喧騒にかき消されることなく心に刻まれている。そして同時に心に刻まれた…傷。
どんなに忘れられない思い出があったとしても、もう二度と二人で並んで星を見ることは出来ない。もう二度と、あのときめきを貴志の隣で感じることはない。
それでも会いたいと願うのはわがままだろうか。自分から逃げ出した恋。
きっともう私のことなんて忘れてしまっている。きっと素敵な人が隣にいるに決まっている。
だって、あんなにも好きになった人なんだ。あんなにも素敵な彼だったんだ。
こんなにも会いたいと、心から願う人なんだ。幸せに過ごしていて欲しい。
熱々の餡掛け焼きそばは、かなり食べやすい温度まで冷めてきた。ゆっくりと時間をかけて食べる。名前とは裏腹に、餡を焼きそばで包んだ一皿。
それは自分の心に似ていた。包みをなくしてしまうと、形を保てない本心。それを誰にも、自分自身にすら触れられないように殻で包んだ。
さらけ出そうにも、その受け皿を失くしてしまった想い。
あの時、ちゃんと自分の想いを打ち明けていれば。今とは違う未来を見ることが出来ただろうか?
……出来ない。いくら貴志でも、まだ中学生。あんな事に耐えられるほど大人ではなかった。いや、そもそも大人でも耐えられることなのか?
大人に近づくほどに、むしろあの事件は、よりおぞましい出来事に感じられた。
薄れていくどころか、心に落ちた影はどんどん深くなっていった。
そろそろ日が暮れる。日暮れが、怖くて仕方なかった。
貴志という太陽を失った、今の自分はずっと深い闇夜に生きている気分だった。明けない夜はない?それは夜明けまで生きていられる人間だけに許された言葉だ。夜明けを待たずに一生を終える人だって大勢いるのだ。
会計をして店を出る。もう一度スープチャーハンのお店の方に歩いてみようか…。
市場通を左右に見渡して考える。関帝廟通りに向かって目を巡らせた。その視界の端に見慣れた制服が見えた。
数年前、紗霧も着ていた如月中学校の制服だった。
気づかれないように視線をそらして、背を向ける。そのまま中華街大通りに向けて歩き出す。
その背中に声が突き刺さった。
「坂木さん?」
心臓を貫かれたような衝撃。体がビクンと跳ねた。気取られぬように歩き出す。
膝は震えていた。怖い。怖い。怖くて仕方がない。
「坂木さんなんでしょ?」
その声はついてきた。聞き覚えのある声だった。だけど、いや、だからこそ、無視してどんどん歩いていく。
どうして?この忌々しい顔は太縁のメガネで隠した。さらに髪も雑に伸ばして、かなり見た目は変わっているはず。学校が違うのだから、当然服装も変わっている。
これでも気づかれるなら、いっそこの顔を切り刻んで全く違うものにでもするべきなのか?
貴志に会いたいと願う以上、覚悟するべき事なのかも知れない。それでも如月中学校の連中に声をかけられるなど、心底おぞましい出来事だった。
逃げるように歩調が早くなる。いや、逃げているのだ。
紗霧はまた、過去から全力で逃げているのだった。
理美は見落としていなかった。声をかけた彼女の体がビクンと跳ねたのを。
見た目ではまったく確信が持てなかった。
大勢の男子を虜にした彼女の、可愛らしいと美しいのちょうど中間にある整った顔立ちは、まったくその面影を残していなかったのだから。
大きな瞳なのに幼い印象は与えない目元は、分厚いメガネで隠されている。小さな顔を彩った、美しく整えられた髪…目の前の少女はそれをかなり雑に伸ばしていた。自分でハサミを入れて、わざわざ長さを不均一にしてまで、ボロボロにされた髪型。
気品あふれる丁寧な着こなしをしていた制服は、シワだらけで下品さを醸し出している。怯えているような表情と仕草。靴下も左右で長さが違う。
坂木紗霧の美しさをまるで残していない見た目。それでも声をかけたのは、占いの時に、貴志の目線を追っていたから。
目の前の少女を見れば見るほど、面影は残されていない。あの美しかった坂木さんが、こんな汚れた姿で過ごしていたなんて…。
貴志はあの人通りの中から、よく彼女を見つけ、目線を止めたものだ。あの時の貴志が彼女を気に止めて見つめていなければ、今も声をかけることはなかったように思う。
そして…。自分の勘は当たっていたと確信した。彼女に、新しい幸せは訪れていない。
それはそうだろう。あんな事があったのだ。
そして、その責任は自分にもあるのだから。
スマートフォンを操作して、準備していた一文を貴志に送信する。
「坂木さん、見つけた」
続けて現在位置を送信したあとで、気がついた。GPSを共有しているのだから、現在位置は送る必要がなかったのだ。
熱くなるな…今は私の気持ちじゃない。貴志くんと坂木さんを会わせないと…。
「坂木さん!待って!」
横浜大通りまで逃げても彼女は追いかけてきた。声の主が紗霧の記憶に引っかかる。
林間学校の班長を務めた一人で、隣のクラスだった、高島理美だ。
直接的な関わりはほとんどなかったけど、よく覚えている。
貴志の周りを取り囲んだ女子たちに交じってはいなかった。それでも班長業務について、貴志に話しかけることが多かった彼女のことはよく覚えている。
会話の内容は真面目に班長業務についてだったが、あれは確実に恋する乙女の話し方だった。紗霧は理美に対して、嫉妬に近い感情を覚えていた。
だからよく覚えている。
彼女は「あの事件」には関わっていない。少し気持ちが落ち着くのを感じた。歩調が緩くなる。
「どうして私だって、わかったの?」
紗霧の声は静かだが、確実に理美を拒絶していた。それでも足を止めてくれた。
貴志が追いついてくれれば理美は役目を終えることができる。
「スープチャーハン食べに行ったでしょ」
理美の一言に紗霧が肩を震わせた。
「あの時、北村くんがあなたに気づいたのよ。だから私も、あなたが坂木さんだってわかったの」
やはりあの占いを受けていたグループに、貴志がいたのだ。「約束を果たしなさい」と、占い師の言葉を思い出す。
しかし紗霧を見つけたのは貴志ではなかった。彼を想っていた少女に見つけられてしまった。
貴志を好きだった彼女の事だ。きっと貴志とは会えないように誘導されてしまうだろう。紗霧の心を支配していく疑心暗鬼。
理美にもそれは伝わっていた。同じ人を好きになった相手だ。逆の立場なら絶対に疑うだろう。
私の立場が好意的に受け止められるわけはないのだ。
「北村くんがこの街にいるの」
最初の言葉で伝わっているはずの事を、わざわざ口にする。まずは警戒心を解かないと。如月中学校の制服を着ている限り、私が私である限り、坂木さんにとっては敵でしかない。
「高島さんが私に声をかけた理由を聞いてるの。貴志くんがこの街にいることは答えになってないよ」
紗霧の声は冷たい。それはそうだろう。如月中学校の生徒である以上は、紗霧を「あんな目」に合わせた一人なのだ。紗霧が理美を好意的に受け止める理由など、どこにもない。わずかにもない。
「高島さん、私の手を見て」
紗霧が促して、理美が彼女をじっと見つめる。
その手が、膝が、震えていた。その感情を理美はよく理解していた。それは、恐怖。
理美が声をかけたことが、紗霧にとっては恐怖でしかない。
二人の距離もしっかり1メートル以上取られている。いつでも会話をやめて逃げ出せる距離。
ああ…どうして私は声をかけてしまったんだろう。今をどう繕っても、私は加害者なのに…。
慎重に言葉を選びながら、貴志が追いついてくるまでの時間を稼ぐ。紗霧は目を合わせてはくれない。話せば話すほど彼女の膝は激しく震えていく。
それでも彼女は逃げずに話をしてくれている。声も震えているのに。
なんとか二人を、会わせてあげたい。
「貴志くんも会いたがっているよ…」
………しまった!理美は自分の口から滑り出た言葉に激しく後悔した。今日一日の、貴志に嫌われようと続けていた行動。あざとく彼に迫り、悪者を演じようとして始めた呼び方。
紗霧の目が大きく見開かれている。その目に涙が溜まっていき、口元がわなわなと震える。
理美は自分の浅はかさを呪った。しかしもう全てが遅かった。
平手打ちの音が響いた。
紗霧は目を見開いたまま茫然としている。見開いた目からは、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。自分が何をしたのかも、まるでわからなくなっていた。なぜ私は高島さんを叩いてしまったの?
じっと手を見る。その手はもはや恐怖で震えているわけじゃなかった。しかし震えは止まらない。
「ごめんなさい…ごめんなさい…ごめ…」
壊れた人形のように力なく同じ言葉を繰り返す。
彼女が「貴志くん」と口にした瞬間、紗霧の手は信じられない早さで高島理美の頬を平手打ちにしていた。
理美が貴志をどのように想っていたか、知っていたから。
自分から遠ざかっておいて、それでも…。彼のことを貴志くんと呼ぶのは自分だけだと、心のどこかで思っていた。そうだあれから2年も、経っていたのだ。
頭が真っ白だった。自分だけが止まった時間の中に生きていて、周りの時間の流れに取り残されている気分だった。
2年も経って貴志の周りは大きく変わったのだろう。高島さんと幸せに過ごしていたのだろう。ああ…2年も経ったんだ。
2年も経ったのに、私は、貴志くんが誰かではなく、自分の隣にいて欲しいと思っていたんだ。
気がつけば紗霧は、全力で走り出していた。