【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第61話-夏が来る〜紗霧の2年前

 住宅地の明かりがかき消した星空を窓から眺めながら、紗霧は炭酸水を飲み干した。
 炭酸の刺激が駆け抜けた喉から、恍惚のため息が流れるように吐き出された。右肘をそっと撫でる。つい数時間前、北村貴志に触れそうになった右肘を。
 そして次は落胆のため息をついた。
 国語の解釈を教えて欲しい。そんな貴志のお願い事を今日果たしてしまった。
 貴志があの講義で満足してしまえば、もう彼に頼ってもらうことはなくなるんじゃないだろうか?それは寂しすぎる。
 北村くんともっと話したい。もっと頼られたい。そんな感情が無限大に広がっていく。
 両手で顔を覆って、紗霧は特大のため息をついた。浮足立った熱を帯びた、後悔のため息を。
「なんで断っちゃうかなあ…」
 貴志に「送ろうか?」と声をかけられるたび、胸が高鳴るのを感じたのは二度目からだった。初めて声をかけてもらった時も、耳が熱くなるくらいには照れていたのだが。
 それでも貴志の申し出に応えたことはない。今日も一人で帰ってしまった。
 
 林間学校の班長をしていた貴志は、班長会議の後に必ず伝達事項などを資料にまとめてから帰路についていた。紗霧はたまたまその曜日に個別指導を受けていて、教室で残業する貴志と二人で話す機会が多かったのだ。
 そう、たまたま。偶然。それなのに何回も?
 実は私を待ってくれる口実に資料作成してたんだったら…そう妄想すると、恥ずかしさが込み上げてきた。
 ベッドに突っ伏して、熱くなった顔を枕に埋める。両足をバタバタとさせて、ゴロンと仰向けになると、天井のシーリングライトが暖色系の緩やかな灯りを提供してくれている。
 その灯りの中にすら貴志の顔を思い描いてしまって、紗霧は再び両手で顔を覆ってしまう。ばたばたばた…。両足がいつもより駆け足の鼓動と、同じリズムでベッド上を弾んでいた。
 初めて二人で話したあの日を思い出す。班長会議の後に初めて顔を合わせた日。
 思った以上に会話が弾んで、遅くなりかけた時に貴志から初めて「送ろうか?」と声をかけられた。
「もし王子様じゃなくなったら、その時は送ってもらおうかな」
 彼の声かけを袖にした時の返事は、あまりにも素っ気なかったんじゃないたろうか?
 同時に、何を思い上がっていたんだと改めて思う。
 北村貴志という人に染み付いた紳士的な態度は、他の女子にも同じように振る舞われていた。
 スマートで相手のことを優先していて、優しい態度だと思う。正直、素敵だと…思う。
 彼は「みんな」に優しいのだ。その優しさを独占したい。「自分」にむけて欲しい。
 あんな素敵な人が王子様の殻を脱いで、北村貴志その人の感情を前面に出した時、私にその好意を向けてくれるとは限らないのに。
 少なくとも貴志に対して、一番冷たい態度を取り続けているのは紗霧自身なのに。
 それでも願いは止まらない。

「ねえ…北村くんはいつになったら王子様じゃなくなってくれるの?」
 夜空に問いかけても、星はうっすらと見えるだけ。
 林間学校で貴志と見上げた星空のような星の絨毯はどこにも見えない。
 余計な明かりが星空をかき消すように、きっと北村くんからは、私は見えない。だって毎日あんなにも多くの女子に囲まれているのに。
 机の上に横たわるフクロウの木工細工に目を向ける。フクロウと目が合うと、まるで貴志と目があったような錯覚を覚えて、慌てて目をそらしてしまった。
 普段のこんな態度も、北村くんには冷たく映ってるんだろうなあ…。
 作者によく似た、涼しい笑顔を見せるフクロウに声をかける。
「そう言うところだよ、王子様」
 北村くんはどんな気持ちでこのフクロウを作ってくれたんだろう。どんな気持ちで星を眺めに誘ってくれたんだろう。
 どうして「送っていこう」なの?そんな誰にでもかけてそうな言葉じゃ嫌。
「一緒に帰ろう…って一言が聞きたいだけなんだけどなあ」
 家の方向はまったく違うけど。それでも「一緒に帰ろう」と言われたら、北村くんが好意を向けてくれていると自惚れることができるかも知れない。
 喉につっかえたような気持ちを炭酸水で流し込む…空だった。そうか、さっき飲み干したんだ。
 紗霧は炭酸水のボトルを片手に部屋を出た。
 
 貴志が、どう考えても好意とわかる形で誘ったときに、紗霧に断られたら…なんて怯えていることなど、紗霧には知り得ない事だったのだ。

 炭酸水のボトルを軽く洗浄して、新しいボトルを手に取ると、紗霧は炭酸水メーカーのボタンを2回押した。
 今日は強めの刺激が欲しい。ため息をつく言い訳ができるくらいの刺激が。胸に溜まったもやもやを洗い流せるくらいに、強い刺激が欲しかった。
 もう一回押す?そっとボタンに手を添えたところで母と目があった。
「紗霧…飲み過ぎじゃないの?大人がビール飲んでるくらいのペースだよ」
 紗霧がまだ幼い頃に、夫婦の酒盛りを見て羨ましがる娘に、炭酸水を与えて仲間に加えたのは母だった。以来紗霧は、未だに味を知らないお酒の代わりに炭酸水を嗜むようになった。
 嬉しい時は、気持ちを刺激的な炭酸とともに弾けさせる。悔しいときやムカムカする時は、飲み込めない気持ちを炭酸水と共に流し込んですっきりさせる。
 娘は今、どんな気持ちで炭酸水を飲もうとしているのか。
 何故か赤らんでいる娘の顔を凝視する。どんな体調もや心のの不調も見逃さまいと、じっと娘を見つめる。

「お母さん、あのね…」
 紗霧は俯いたまま母に告げた。
「私ね…好きな人ができたみたい」
 中学生の娘を持つ親にとっては、立てこもり犯に人質に取られたくらいの大事件である。
 しかし母は動じない。なぜなら…。
「紗霧、林間学校から帰ってきたときも同じこと言ってたわよ?
 まさか、別の人じゃないわよね?」
 そう聞かれて、熱を帯びていた紗霧の顔が本格的に火を吹いた。
「同じ人!あの時よりもっともっと好きになっちゃったの!」
 ううん…「もっと」が2回じゃ足りないくらい好きになっちゃったんだ。
 それよりも…。
「私、前も言ってた?」
 娘の問に母は深々と頷いた。そして困ったような顔で、ため息をつく。
「そうだね〜今日の晩ごはん担当忘れて、炭酸水をがぶ飲みするくらい惚けてるもんね〜」
 母に言われて青ざめる紗霧。
「あ…そうか、今日は」
 炭酸水をテーブルに置いて、紗霧は大慌てで若草色のエプロンを手に取った。
「もう出来てるから、ゆっくりしときなさい。それよりも座ってお話しましょうか?
 娘と恋バナするの、夢だったのよ〜」
 母の顔がニヤリと歪みのを見て、紗霧は背筋に冷たい汗が流れるのを感じていた。
 ぶしゅっ!軽快な音を立てながら開封された炭酸水を口に含む。
 やっぱりもう一押ししとけばよかった。
 母の満面の笑みが怖くて、刺激を感じない。今日は母にいいおもちゃにされそうだった。

 貴志と出会ってから現在に至るまでをじっくりと聞き出していく。
 モテすぎる男子が隣の席で、毎日女子たちが群がるからうるさくて仕方ない事。
 班長を務めた彼は、みんなをよくまとめ、林間学校がすごく充実したものになったこと。
 遅くなった時、送ろうかと声をかけてくれること。でも王子様と呼ばれる彼だから、その声かけが自分だからなのか分からなくて、不安な事。
「どうしても自信が持てないんだ。不安なんだ。周りのみんなと同じように…それじゃ嫌なんだ。
 だから紳士的に誘われても、つい断っちゃうんだ。
 私ってすごくめんどくさい子なんだな…って、自分で自分が嫌になるの」
 炭酸水のボトルをキュッと握りしめる紗霧の手を、母はそっと両手で包んだ。
「紗霧よりもかわいい女の子なんて、この世にいないから安心しな」
 母のその言葉も、普段の溺愛ぶりを考えたら安心材料にはならない。だけど…。
「紗霧がそんな不安を話してくれるの初めてだね。不安になるくらい好きな人ができたんだね。
 私はそれが嬉しい」
 そう言われると、そうかも知れない。こんなに胸が苦しくなるくらい誰かのことを考えたのは初めてかも知れない。
 そうか…私。
「そうか…好きだから不安になるんだね」
 たくさんの本を読んで、たくさんの小説の中で触れてきた恋。だけど自分にはまだ訪れていなかった気持ちは、想像するばかりでまるで実感が持てなかった。
「そっか…私、初恋してるんだね」
 私は、北村くんが好き。皆じゃなくて、私のための言葉をかけてほしい。
 好きな気持が呼び起こす不安があるなら、それを吹き飛ばすくらいに「好きだ」って言って欲しい。
 いつか頼られたい…じゃなくて、今すぐにでも頼られたい。
 ああ…私、北村くんのこと大好きなんだ。
 
「仕事めっちゃ疲れた〜と思って帰ってきたら、なんか凄い気分の悪い話してない?」
 すべての気分を台無しにするように割り込んできた父の一言。
「おかえり〜!」
 飛びつくように父に抱きつく母を見て、紗霧は苦笑いを浮かべた。
 さすがにこれは出来ないけど…もう少しストレートに感情を出してもいいのかも知れない。
「紗霧は俺のものだからね!将来パパと結婚するって言ったのは忘れてないからね!他に好きな人ができた場合は婚約破棄だからね!」
 喚く父に恨めしそうな目を向ける母。この二人みたいに素敵な夫婦になりたいな…。
 父にぴったりとくっついて離れない母の代わりに、紗霧は食卓を準備した。

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