【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第75話-やまない雨の季節〜貴志の雨
福原瑞穂は毎週土曜日に家を訪ねてくるようになった。貴志に勉強を教えてもらうためだ。一学期が終わりに近づくにつれて瑞穂の成績は飛躍的に伸びている。
7月の実力テストではついにクラス平均に肩を並べることができた。貴志がまだ教えていない事はたくさん残っている。それは逆に言えば伸びしろがたくさん残っているということ。二学期の初めには、師走高校の合格圏に十分間に合いそうなペースだった。
「北村くんのおかげだね」
瑞穂は雨の中、傘を放りだして校庭でくるくると回りながら謎のダンスを披露している。
心底嬉しそうな笑顔はいつ見ても…。いつ見ても、何だ?
俺は福原を可愛いとでも言いたかったのか?それとも…。太陽みたいだと言いたかったのか?
貴志は脳裏に浮かんだ言葉を全力で否定した。
紗霧のいない心の隙間を埋める人など現れてたまるものか。あんなにも…好きだったのに。
二学期までに瑞穂の学力を師走高校レベルに引上げる。前述の目標を達成するペース配分は、夏休みの半分くらいを使って、瑞穂に勉強を教える事を前提としている。その事に貴志は気付いていない。
瑞穂がそばにいることが当たり前になりつつある事に、貴志は気付いていないのだった。
瑞穂の軽快なダンスを見守りながら、裕は貴志の肩に手を置いた。
「ところで貴志く〜ん。
何やら瑞穂は毎週土曜日に一人で貴志に会いに行ってるようだけど?」
別に隠すようなことではなかったが、裕に伝えるのを忘れていたな。貴志は裕の笑顔の奥にうっすらと見えた寂しさを見逃さなかった。
「勉強しにきてるだけだ」
貴志はぶっきらぼうに返す。すかさず裕が呆れたように指摘した。
「それを会いに行ってると言うんだぞ」
瑞穂への恋に破れて、一晩泣いた裕。瑞穂の恋を応援すると決めた裕。
瑞穂が想っているのは貴志だが、その貴志ときたらこの調子だ。少しくらいは瑞穂の気持ちに目を向けても良いだろうに。
「福原が俺の事をどう思ってるかくらい、わかってるつもりだ。
だけど俺にその気はない。俺はただ福原が志望校に合格できるようにアシストしてるだけだ」
まったく頑固な奴だな。裕はため息をついて、視線を瑞穂に戻した。瑞穂の志望校が師走高校なのは、お前がいるからだろうが。
裕は小さくため息をついた。
瑞穂は嬉しそうに踊り続けている。雨の中踊っているものだから制服はうっすらと濡れていた。目を凝らすが…。
「こりゃ!そこのスケベやろう!透けてるかチェックしているね?」
瑞穂がびしっと指を裕に向けて突きつける。
あ、バレた?へらへらと笑う裕を尻目に、貴志はぼそっと呟いた。
「残念だな、裕。あれは透けてもブラは見えんぞ。インナーが見えてる」
しっかり見ている貴志であった。しかしその声に抑揚はなく、どんな気分で発せられた言葉かは読み取れない。
「福原本人に興味はなくても、俺だって思春期だからな」
この言葉も淡々としている。冗談なのか本気なのか。裕にすら区別がつかないのだ。
通りすがりの女子生徒たちがあからさまに舌打ちして遠ざかっていく。
「お前…昔はもう少しストレートにエロかったのにな」
せめて思春期特有のときめきを恋と勘違いしてくれれば、瑞穂ももう少し楽になるんだろうけど。
「サトちゃんも踊ろうよ〜」
瑞穂が声をかけた瞬間、隼人と貴志の耳がピクリと動いた。獣のような視線が理美に刺さる。
しかし当の理美は手をぱたぱた振って、お断りの意を表しただけだった。
理美のパーフェクトボディが雨に濡れないとわかるやいなや、2匹の獣はしゅんとなり人間に戻るのだった。
「貴志…昔のお前は、もう少しストレートにエロかったのにな」
裕はため息をついた。
坂木紗霧と高島理美は少し似ている。顔も、雰囲気も、趣味も似ている。違うのは性格と体格くらいか。
理美には失礼だと思ってはいる。彼女の告白を断ったのは貴志なのだから。どんなに想い続けてもらっても、理美に対しては友人として以上に心を開く事は出来なかった。なのに理美に対して湧き上がる思春期の衝動は何だ?
性の対象としか見ていないのか?
それは貴志が最も忌み嫌っている感情。その対象は、心から好きだと思う相手でなければならないと思っている。思っているのに。
大切な友人ではないのか?
「貴志くんなら別に良いんだよ、見せてあげても」
理美は挑戦的な笑顔を貴志に向けた。当てつけのように背中を反らせて、胸のサイズを強調してみせる。貴志がクラスの中で唯一自分の胸だけは注視することがあるくらい、理美にはお見通しなのだ。
申し訳ないけれど、もう悟志くん以外に見せるつもりはないんだけどね。
からかうためだけの言葉に、貴志は苦笑いと謝罪で返すしかなかった。
理美も貴志が抱える葛藤は理解しているつもりだった。ただ少し振られた腹いせがしたかっただけなのだ。理美のしたたかさは健在の様子だった。
紗霧も理美ほどしたたかでいられたら、もう少し未来は違ったのかも知れない。別れが避けられないものであったとしても、もしかしたら戻る選択肢を準備できたのかもしれない。
紗霧を忘れようと思うたびに、心にできていく隙間。隙間というよりは裂け目だろうか。
毎夜、張り裂けそうな心を抱えては、震えながら眠る。枕は貴志の瞳からこぼれる雨で濡れていた。
それでも金曜日と土曜日の夜は、なぜだか静かに眠ることができた。金曜日はみんなが家に来て盛大に勉強会をする日。そして土曜日は瑞穂が一人、貴志の家に勉強をしに来る日だった。
瑞穂が家に来た日は不思議と心が落ち着いた。梅雨が連れてくる曇天のように心を覆う雲も、降り止まない雨のような涙も、なぜか晴れたような気がするのだ。
瑞穂はいつも屈託のない笑顔で、楽しそうに勉強する。いや勉強の時だけではない。今も楽しそうに雨の中踊っている。
どうしてこんなにも明るい福原が、俺の事を慕ってくれるのだろう。絶対的な信頼を置いて、まっすぐな好意を向けて。
太陽のような笑顔で見守ってくれるのは、なぜだろう。
瑞穂の笑顔を見ていると、胸が痛んだ。
「いい加減に帰るぞ。ほら体を拭いとけ」
貴志は胸の内を顔に出さないよう気をつけながら、瑞穂にタオルを差し出した。
「風邪でもひいたら勉強に差し支える」
今日は木曜日。明日も明後日も瑞穂は家に勉強しに来る日だ。
もしかして心配してくれてる?それとも…。
瑞穂はタオルで濡れた体を拭きながら、頭に浮かんだ言葉を追い出した。口に出そうものなら、貴志からどんな否定の言葉をもらうかわからない。
サトちゃんなら言ってしまうんだろうなあ。
「それって、風邪をひいたら週末に会えなくなるから?」
ん?言ってない、言ってないよ。私、何も言ってないよ。瑞穂はタオルに隠れた口元をあわあわとさせている。落ち着かない気持ちで顔をわしわしと拭いた。
母からは、顔を拭く時は絶対にこすらないようにとキツく言われていたが、今は将来のシワの事など気にしている場合じゃなかった。
タオルドライを終えて周りを見ると、理美がニヤニヤと笑いながら貴志を見ていた。
「なんだぁ、サトちゃんか…。びっくりした」
心の声は漏れたのではなく、理美が言っていただけらしい。だけど…。
「別に福原に会いたいわけじゃない」
貴志がはっきり口にしてしまうと、寂しい気持ちは否めない。瑞穂は痛む胸を押さえた。
解散後、貴志は一人歩いていた。なんとなく傘をたたんでみる。雨はまだ降り続いている。
空を見上げたらあっという間に、顔がびしょ濡れになった。
目の周りを涙のように雨が伝う。いや、伝うのは雨だけではなかった。
紗霧に伝えた「さようなら」に、彼女からの返事は来ない。別に新しい恋をしたいわけじゃない。ただ紗霧には、自分に縛られずに次の幸せを探してほしいだけなのだ。
だけど横浜で見かけた紗霧は、雑な髪型、だらしない制服の着こなし、メガネと前髪に隠れた顔、どれを取っても二年前の面影を感じないほどに変わり果てていた。
紗霧と直接話したのは理美だけ。理美が教えてくれた。紗霧はまだ貴志を想っているのだと。
どうして…?俺のせいであんな目に遭ってしまったのに。紗霧を辛い目にあわせたのは俺なのに。
天を仰ぎ見る貴志の、頬を伝う雨はしょっぱい味がした。
雨が体温を、涙が心の温度を奪っていく。
手を飛ばしてもけして届かない紗霧の面影。夏の準備が始まる梅雨なのに、真冬のように寒い。
貴志は今夜も震えるように眠るだろう。
心の雨が降り止まない。
太陽が恋しかった。