【連続小説】初恋の痛みが消えないまま俺はまた恋をする第81話-やまない雨の季節〜紗霧の雨⑤
初恋の人の両親は、初恋同士で結婚したことを知らされた。紗霧の両親も初恋同士らしい。
しかもお互いに、出会いは中学校だったことも共通していた。
「つまり私たちも結婚できる可能性が、十分にあるってことだよね」
夜空に浮かぶ星たちを見上げ、紗霧は囁くように言葉を宙に泳がせた。
今日はよく眠れそうだった。
貴志の家では、1時間ずつお互いの得意な教科を教え合った。貴志は数学を、紗霧は国語を。
その後はお茶と雑談の時間が流れた。
貴志の好きな星空のこと。紗霧の好きな本のこと。僻地医療に携わる貴志の父の話。会話は途切れることなく続いた。
そして貴志も僻地医療にいつか携わることを夢に見ている事を知った。
紗霧は本に関わる仕事をしたいと思っていたから、やはり貴志の母が言うように離れなければならない時が来るのかも知れない。
だけど貴志の両親のように、離れても心で繋がる夫婦がいることが嬉しかった。
いつか離れて過ごす日々が来ても、寂しくならないくらいに貴志を想っていたい。
そう思っていたら星が流れた。
天の川に想いを馳せる。
見上げた夏の大三角形を描くベガとアルタイル。怠惰を咎められ1年に一度しか会えなくなってしまった夫婦の神話を思い出す。
怠惰の罰ではなく、お互いを大切にした上での別離ならば…。
「1年に1回会うことができるなら」
それは星々のささやきほどの小さな声だった。だけど銀河の果てまで気持ちは届くような気がした。
二度と会えなくなる別れを選ぶよりも、辛くても1年に1度だけでも会える夫婦になりたい。貴志の両親のように。
中学、高校、大学と学生生活を送るうえで環境は変わっていく。世の中も変わっていく。お互いの気持ちも変わるかも知れない。
それでも貴志とは一緒にいたい。そう心から願う。またひとつ、星が流れた。
そう言えば雨予報だったから家に行ったのに…晴れちゃったなあ。
寝床に着いた紗霧は、自分でも信じられないくらいの早さで眠りに落ちていった。
緊張もしたが、何も思い残すことのない、幸せな1日だった。
中学3年生になった紗霧は、深く長いため息をつくと、アルバムの写真をそっと見つめた。
「そんな風に思ってたのにな…」
貴志の母が撮ってくれた2人の写真。貴志も紗霧も緊張で表情はガチガチに固まっていた。
初めてのツーショット写真には、それでも紅潮してはにかむ笑顔の二人が並んでいた。
あれから2年が過ぎた。今の紗霧の瞳には幸せを感じさせる光は宿らない。後悔と恐怖と孤独が、紗霧の心を黒く染めていた。
あんなにも想っていた貴志は、もう隣にいないのだから。
机に想いの雫が雨となって落ちていく。
貴志はもう…隣にいない。
紗霧は再び、2年前の思い出へと心を巡らせていった。
日曜日の昼前。自室で本を読んでいたら、母に呼ばれた。
「北村くんが表に来てるけど?」
会う約束はしていない。アポ無しで突然来るタイプの人ではないので、紗霧は素直に驚いた。
スマートフォンで念のため確認してみたら、1時間ほど前に一通のメッセージが届いていた。
寝る時に着信音を切ったままだった。紗霧は痛恨の思いで内容を確認する。
「母さんの赤飯発言が、本気だったみたい。今朝炊き上がったから、持っていくね」
なんと律儀な…。などと感嘆している場合ではない。
2人の家は歩いて20分程度しか離れていないが、それでも貴志は1時間前に連絡をくれた。
「私に十分な身支度をする時間をくれてたのに。
部屋着じゃ会えないよお!」
大慌てで手に取った服を着込んで、紗霧は階段を駆け下りた。
リビングの母は上機嫌な様子だった。
「北村くんって、しっかりしてるね。凄く礼儀正しい挨拶をしてくれたよ」
そう言って感心したように何度も頷いている。その母の目が紗霧の姿を捉えると…。
「えっ?紗霧、なんで制服なの?」
部屋着のまま貴志に会うのが憚られて、手の届く範囲にあったまともな服を選んだ結果が、制服だったのだ。
紗霧は落ち込んだ顔をして、うなだれている。
「落ち込んでてもかわいいよ。恋する乙女の顔だね。
恋人はあまり待たせるもんじゃないわよ」
母に背を押され、紗霧は玄関へと向かっていった。
「ごめん。念の為小豆ともち米を買って帰ったら、母さんがすっかりその気になってて」
貴志は頭を下げた。そして、
「お昼ごはんの準備時間に食べ物持ってくるなんて、タイミング悪すぎるよね」
昨晩から小豆を炊いて、もち米を一晩漬け込んで。貴志がかけた手間を思うと、この時間になるのは納得出来た。
想定しておくべきだったのだ。この展開を。
紗霧は一層落ち込んだ。
「わ、私、本読んでて、気づかなくて」
日曜日に制服で表に出た言い訳をしながら、紗霧は昨晩の間に服装を選んでいなかった自分を責めていた。
「事前に連絡をしなかった俺が悪いんだよ。
それに、部屋着ならそれはそれで、会ってみたかったけどね」
貴志は紗霧に頭を下げながら、付け加えた。
「いつか部屋着の紗霧と、当たり前に顔を合わせるようになりたいって…そう思ってるんだから」
それって?紗霧の胸がときめいた。
いつか二人で生きていけるようになれたら。貴志もそう思ってくれているのかも知れない。
林間学校で並んで星空を眺めながら望んだ、永遠。
紗霧が望んだ未来を、貴志も重い描いているのなら。
紗霧は貴志の手首を両手で握る。もう少し一緒にいたかった。
貴志だって、せっかく会った紗霧ともう少し一緒にいたい。貴志は紗霧の手を握り返した。
無言のまま二人は見つめ合った。
「もし来週、ご両親に時間があるのなら」
「うん、聞いておくね」
そして二人は同時に手を離すと、また明日と言って同時に背を向けた。
遠ざかる足音。
後ろ姿だけでも、もう一度見たい。玄関のドアノブに手をかけた紗霧が振り返った。
同時に貴志も振り返る。二人の視線が繋いだ手のように絡み合う。
ああ、明日も明後日も…ずっとずっと顔が見ていたい。
「また明日ね」
紗霧は囁くように言うと、肩の高さで小さく手を振った。
「うん、また明日」
貴志も軽く手を上げると、囁くように返して再び背を向けた。
歩き出した貴志を見送って、リビングに戻った紗霧は、小さくため息をついた。
離れたばかりなのに、もう会いたい。
たった20分の距離が果てしなく遠く感じる。これは家と家に隔てられた遠距離恋愛だ。
リビングに戻った紗霧を、母が微笑を浮かべて迎えてくれた。
「キスでもするのかと思ったわよ。はらはらしたぁ」
母の目線を追うとインターホンのモニターが玄関の風景をくっきりと映し出している。スピーカーからは通り過ぎた車の音が再生された。どうやら貴志との逢瀬は筒抜けだったらしい。
紗霧は頭を抱えた。玄関に向かう前に「待たせてごめん」とモニター越しに貴志に告げたのは紗霧だ。
モニターの電源を切り忘れた紗霧の失敗だった。
「いい子だね。こっちのご飯の段取りまで心配してくれるなんて」
何度も頷きながら、母は感嘆の声を絶やさない。
どうやら母は貴志を気に入ってくれたようだった。
「来週ちゃんと挨拶がしたいんだって。
お父さんの休日出勤は大丈夫かな?」
紗霧は恥ずかしさで赤くなった顔はそのままに、母に尋ねた。
母が頷くのを見て、紗霧の表情がぱっと明るくなる。娘の目が星空を纏ったようにキラキラと輝くのを見て、母は喜びを隠せなかった。
「娘の初恋成就を祝って、今日は御赤飯炊かなきゃね」
それは良いんだって…。
紗霧は小さなため息を漏らすとともに、貴志の届けてくれた赤飯を差し出した。
その晩坂木家の三人は貴志の赤飯を中心に、笑顔で食卓を囲んでいた。
父だけはごま塩がいらなかったようだ。涙で塩味が足されている。
「美味しいじゃないか!これじゃ文句言えないじゃないか!
それに紗霧がものすごくいい表情をしてるじゃないか!今までで最高の笑顔じゃないか!これじゃ娘はやらんとか言えないじゃないか!」
一人でブツブツと呪文のように繰り返す父を見て母と娘が口を開けて笑う。
それは本当に幸せな食卓だった。
その夜、天気が急変し、警報レベルの大雨が降った。
梅雨入り宣言からしばらく晴れと小雨を繰り返してきた天候が、この日を境に荒れ始める。
ついに梅雨が本格化しようとしていた。やまない雨の季節が始まった。