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満月の夜に君と語らう


 
「やあ、また会ったね。小見泉真治くん」
 この時をどれくらい待っただろうか。
「薫くん、僕はずっと君に逢いたかったんだ」
「言っただろ。また逢えるって」


 僕は幼いころから極度の人見知りで人と交流することがうまく出来なかった。人と冗談を言って笑い合ったりする人を見る度にこの人たちはドラマの台本でも読んでるんじゃないかと疑ったものだ。一体人と人が会話するとき頭の中がどんな風に働くのだろう。僕はずっと孤独だった。小学校まではただの大人しい子供で済んでいたのだけれど、中学へと上がるにつれ僕は学校に出るのが苦痛になった。友達も出来ずただただ無言で時の過ぎ行くのを待つ日々だった。驚くべきことかもしれないが、僕は女子にモテるということがこの上なく苦痛だったのだ。(喋らないことによってミステリアスな雰囲気を醸し出していたのか、何人かの女子が僕に好意を寄せていると同級生から聞いた)もし自分に好意を寄せている女子が僕の醜い内面を知ったらどんなにかがっかりするだろう。思春期に差し掛かった僕はそんな妙なことを気にしていたのだ。何も喋らずにいれば醜い内面を晒さずに居れると思った。授業はまったく頭に入って来ず、呼吸は浅くなり全身の筋肉が強ばって痛かった。僕はこの苦痛から逃れるために意味のないことをひたすらノートに書き綴っていた。
 僕はこのまま生きていけるだろうか? 常に不安を抱えながら心を凍らせて機械人形のように生きていた。
 唯一の安らぎは家でピアノを弾いたり、クラシック音楽を聴きながら、言葉では説明出来ないような白昼夢の世界に浸っていることだった。

 高校に入ってすぐ僕は父親の転勤で鄙びた港町へ引っ越した。
 この小さな町に一つしかない高校に転校した僕は運命的ともいれる人に出会ってしまったのだ。渚沢薫くんに。
 彼は僕の人生で初めての親友と呼べる存在だった。豊かな音楽的才能を持っている彼と共に音楽祭を目指して練習した日々は青春といえるものだった。まさか自分にそんな日々が訪れるなんて夢にも思わなかった。
 彼と過ごした半年間は僕の人生をすっかり変えてしまった。もし彼と出会わなければ今こうして曲がりなりにも仕事をしている僕の人生はなかったかもしれない。
 僕は彼の予言した通りある程度まともな人間になることが出来たかもしれない。ぎこちないけれど人と話して笑ったり冗談を言うことも出来るようになった。
 一度会社の同僚の女の子に告白されて付き合ったこともある。僕はその子のことが好きだったし一緒にいて楽しかった。たけど気づいたのだ。僕が本当に愛していたのは渚沢薫くんだけだったと。その子と付き合ったのは薫くんを失ったことへの代償行為でしかないと。僕は正直に自分の気持ちを話してその子とは別れた。
 僕はずっと薫くんの影を追いかけていたのだ。引っ越した彼の関西の住所に手紙を送ったが宛先不明で送り返された。電話はもちろん通じなかった。興信所に頼んで調べて貰ったら、次の高校も半年ほどで転校し、父親の仕事の関係でドイツのケルンに行ったということだけが分かった。ケルンのどこにいるかは分からなかった。
 あの懐かしい港町へ戻って彼と歩いた防波堤沿いの道を歩いたりもした。薫くんの影を追い求めて。
 彼と別れて7年経った今でも彼との会話を鮮明に思い出すことができる。きっと僕は彼の影を追いながらずっと一人で生きて行くんだろうな……。そんな風に思うこともある。それでもいい。




 満月の夜、眠れない僕は散歩に出かけた。僕の住んでいる郊外の住宅地から、国道を脇道にそれ10分も歩けば緑豊かな田園地帯が広がっている。僕は田んぼと田んぼの間の広い農道を散歩するのが好きだった。遥か上空を眺めながら星や流れ行く雲、飛行機の点滅を眺めたり、あてどもなくぶらぶら歩いていると詩人にでもなったような気分になる。そういえば僕は昔からシューベルトの「冬の旅」が好きでいつか見知らぬ土地をさすらい歩いてみたいと思っていたのだ。
 夜の散歩は気が向くと一時間以上も歩くことがある。以前調子のいい夜にどこまでも歩けそうな気がして一晩中歩いたことがある。隣町まで往復40キロ近くを歩いて、朝方帰ってきて眠りに就いたこともあった。
 その夜の僕の散歩コースは鬱蒼と草木が両脇に生える小道を丘の上の方へと登って行った。その先には満々と水を湛えた美しい湖があった。僕は湖面に浮かぶ月を見たくなったのだ。しばらく小道を歩いていると風に乗ってヴァイオリンの音色が聴こえてきた。湖畔には小さな四阿があってそこに人影が見えた。僕は不安と期待が入り混じった気持ちで四阿に近づいていった。
 僕が近寄ると四阿の影の主は演奏を止めてこちらを振り返った。どうして気づいたのだろう?
「……やあ、また会ったね。小見泉真治くん」
 信じられないことにそこにいたのは渚沢薫くんだった。ひょろ長い背丈に白いTシャツと黒いズボンを履いて高校生のころとあまり変わらない外見だった。
「薫くんなの!? 信じられないな。また君に逢えるなんて」
 まるで夢のように幻想的な光景だった。何度この時を夢に見ただろう。
「言ったじゃないか。君とはまた逢えるって。信じてなかったの?」
「いや、僕も君とまた逢えると信じていた。だからこうして今まで生きて来れたんだ。でも君はあまりにも不思議な存在で本当にこの世の者なのか分からなかったから」
 薫くんは太陽のように笑った。
「ははは。それじゃ僕のことを化物かなんかだと思ったのかい?」
「化物というか、て……天使?」
「天使か……あるいはそうかもしれない。神はこの地球の統治権をリリスに委ねた。君と僕はリリンじゃなくてリリスさ」
「ごめん。薫くんが何を言っているのかわからないよ」
「君の魂の意味さ。……君は繊細だね。神に愛されている。君に出逢えて良かった」
「僕も君に出逢えて良かった。もし出逢わなければきっと人生に絶望していたと思う」
「それは君が優しいからさ。神は多様性を好むんだ……様々な魂の形。様々なヒトの可能性。君の存在がこの宇宙の意味でもある。この宇宙は君を幸せにするためにあるんだ。真治くん。僕たちは何千年も前から出逢っていたんだよ。この先肉体が滅んでも僕たちは何度でも出逢うのさ」
 僕は薫くんの話を聞いて涙が止めどなく溢れた。薫くんの言葉は僕のすべてを肯定してくれるようだった。他にも話したいことが山ほどあるのに胸がつかえてうまく喋れない。7年間ずっとこの時を待っていたのに……。
「君は僕が消えると思って不安になって泣いているんだね。心配ないよ。僕は君と共にある。たとえ今この時が夢だとしてもまた何度でも逢えるんだよ。君が望めばね。さあ涙を拭いて……」
 薫くんは僕の肩に手を置くとにっこりと笑った。
 月明かりに照らされた彼の青白い横顔はこの世の者とは思えないほど美しかった。
 ……もうすぐ彼は行ってしまう。背中に予感の戦慄が走った。
 僕は衝動に突き動かされて彼を抱き締めた。薫くんも僕を抱き返してくれた。確かに感じる薫くんの温もりに僕は安心した。ああ、確かに生きてるんだな。僕はこの温もりを忘れないように心に刻もうと思った。……いつの間にか周りの景色が混沌としてきたようだ。

「さあ真治くん一緒に弾こう。あの頃のように」
 信じられないことに四阿の片隅に古びだピアノが置いてあった。傷まないように誰かが管理しているのだろうか。前に来たときは無かったはずだ。
 僕は躊躇いながらも蓋を開けて椅子に座った。
 薫くんはテーブルの上に置いてあったヴァイオリンを取るタオルを付けて顎に当てた。
「何を弾くんだい?」
「そうだな。『美しい夕暮れ』はどうだろう」
「『美しい夕暮れ』か。いいねそれ」
 昔からドビュッシーは一番好きな作曲家だった。薫くんも同じでそのことがきっかけで僕たちは急に親しくなったのだ。7年前薫くんが初めてピアノを演奏したときもドビュッシーの「月の光」だった。
 僕が「美しい夕暮れ」を弾き始めると薫くんは四阿の外に出た。そして湖面に向かってをゆったりとヴァイオリンを弾き始めた。月の浮かぶ湖面がさざ波で揺れている。涼風が心地よく吹き渡る。ああ、なんて幸せなんだろう。
 美しいヴァイオリンの音色に酔いしれながらいつしか意識が朦朧となっていった……。



 やがて僕はうっすらと目を開けた。
 そして確信した。今の出来事は夢じゃないと。
 きっともう人生に迷うことはないだろう。
 これからは前を向いて生きていける。
 彼は僕の人生を肯定してくれた。僕は彼のためにも恥じないように生きて行こうと思う。
 こうして薫くんを探す7年にわたる旅は終わりを告げた。
 だけどもう寂しくはない。いつの日かこの人生の旅路の果てにまた薫くんと逢えるのだから。


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