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小さな音楽会 カミルとエリゼ



 ヨーロッパの片隅にある地下都市で僕とおじいさんはひっそりと暮らしていた。
 両親は流行り病で亡くなって顔は覚えていない。僕の生きていく手段は楽士として楽器を演奏すること。僕と祖父は楽士として地上に出て裕福な家庭でヴァイオリンを弾いたり歌ったりした。そして見返りに幾ばくかのお金を貰いそれで食べ物を買って暮らしていた。祖父は三日前から身体の具合が悪くてベッドに横たわっていた。
 スープを温めて持っていくと祖父は言った。
「カミル、次から楽士の仕事はお前一人で行ってくれ。お前はもう上手にヴァイオリンを弾けるし歌だって歌える。それに詩も書いているのだろう」
 僕は祖父に毎日ヴァイオリンの稽古をつけて貰っていた。また祖父の書棚にある本を片っ端から読んでいた。その中には詩集もあり、僕も真似して詩を書いていたのだ。
「だけどおじいさんは?」
「わしはもう長くはない。死んだら教会に葬ってくれ……。楽士としてお前に教えることは全て教えたつもりだ。お前の腕前は荒削りだがわし以上に巧くなるだろう。後は自分で学びないさい。おまえはもう十四になるんだから」
「やだよおじいさん。僕を独りにしないで」
 祖父は僕の頭を撫でながら言った。
「お前にはヴァイオリンがある。寂しいときは詩の神に語りかけるがいい 。きっと答えてくれる……」


 三日後の夜、祖父は静かに息を引き取った。翌日僕は冷たくなった祖父の身体を荷車に載せて教会へ行き、埋葬料を支払った後墓地へ埋葬した。そして墓前で祈りを捧げた。
「さよならおじいさん。僕は一人でもきっと生き抜いてみせるよ」
 
 その晩僕は街へ行き定刻通りフリードリッヒ家の門を潜った。
 門扉を叩くといつものようにメイドのセシルさんが出て来て応接間に案内された。
 そこで開かれた晩餐会で僕はヴァイオリンを弾きながら歌った。
 やがて宴が終わった後、セシルさんに連れられてその家の一人娘であるエリゼ嬢の部屋へ向かった。エリゼ・フォン・フリードリッヒは僕と同じ14歳で亜麻色の長い髪の毛と美しい青い目を持っていてとても聡明だ。これまでに何度もおじいさんと訪問したことがある。
 ドアを叩いて部屋に入るとエリゼはランプも点けず、月光の差し込む窓辺の机で何やら書き物をしているようだった。
「お嬢様、楽士のカミルが参りました」
「今晩は。お嬢様」
「あら、今日はおじいさんと一緒ではないんですね」
 僕は咄嗟に嘘をつくことにした。心配をかけたくなかったのと僕が楽士を務めることで給金を減らされることを恐れたからだ。
「ええ祖父は今、病でベッドに伏せっています。これからは僕が楽士を務めさせて貰います」
「まあそれは心配ですね」
「ありがとうございます。今日は詩集を持ってきました」
 僕は鞄から詩集を取り出してお嬢さんに渡した。
「まあ、うれしい」
「ええ、祖父の部屋には古い詩集がたくさんあります」
「私も読みたかったわ」
「いつでも読めますよ。詩集はほとんど暗唱してますから」
「まあ、流石は楽士ですね」
 僕はとても嬉しくなってブルジェの詩を朗読した。

 美しい夕暮れ         ポール・ブルジェ

沈む夕日の中、川が真っ赤に染まり
暖かくさざめく波が小麦畑の上を渡るとき
あらゆるものが「幸せになれよ」と言っているようだ
揺れ動く心にはそう聴こえてくる

この地上に生きる喜びを味わいつくせということなのだろう
まだ若いうちに、そして夕暮れがこんなに美しいうちに
私たちもこのさざめく波と同じようにやがて去っていくのだから
さざめく波は海へと、そして私たちは墓場へと



「とても美しい詩ですね」
「ええ、僕もこの詩は大好きです」
「いつか私も書いてみたいわ」
「お嬢様ならきっと書けますよ」
「ふふふ。そうだといいわね。今日は何を演奏なさるんですか?」
「そうですね。チャイコフスキーの『メロディ』を弾こうと思います」
「初めて聴く曲ですね」
「ええ。『懐かしい土地の思い出作品42』という小品の3番目の曲です」
 僕はヴァイオリンケースからヴァイオリンを取り出すと顎に当ててゆっくりと弾き始めた。




 エリゼは演奏が終わると盛大に拍手してくれた。
「素晴らしい演奏ですね。感動したわ。おじいさんの憂いを秘めた優美な演奏とも違って、あなたの繊細で若々しい力を感じます。麦の穂を渡る優しい風のようでした」
「ありがとうございます。おじいさんに荒削りだって怒られながら何度も練習した曲です」
「あの……。もしよかったら私もピアノを習ってますの。まだ下手ですけれど伴奏ぐらいなら出来ます。あなたと一緒に演奏できないかしら?」
 エリゼが花嫁修業に様々な習い事をしているとは聞いたけどピアノが弾けるとは知らなかった。
「ええもちろん。だけどあなたがピアノを弾けるなんて知りませんでした」
 エリゼはうつ向いて言った。
「上手に弾けるようになるまで黙っておこうと思って……」
「何を弾くんです?」
「あなたとおじいさんが初めてうちに来たとき弾いてくれた、ショパンのノクターンの第二番を。私が伴奏するのであなたが主旋律を弾いて下さい」
 そう言ってエリゼは部屋の端にあったピアノの蓋を開け椅子に座った。僕はエリゼに目で合図するとヴァイオリンを弾き始めた。


 演奏が終わったあと暫く僕らは無言で余韻に浸っていた。エリゼさんと一緒に弾けたことがうれしくて心がふわふわしていた。
「今日はとても楽しかったわ。カミルさんこれから毎週金曜に来れませんか?」
「ええ喜んでエリゼお嬢様」
 僕は毎日貴族の家を巡っては晩餐にヴァイオリンと歌を披露して給金を貰ったが、必ず金曜日はフリードリッヒ家に行くと決めた。演奏が終わったあとエリゼと様々なことを話した。彼女は僕の演奏を毎回誉めてくれたし、便箋に書いた詩を読んでくれたのだ。
 僕は次第にエリゼに会いにいくのが非常に楽しみになった。彼女に読んで貰うための詩を毎晩遅くまで書いた。彼女のことを思い浮かべると胸がじんわり温かくなってどんな辛いことにも耐えられるような気がした。


 彼女の家を訪れるようになって三ヶ月ほどたったある日、いつものように演奏を終えたあと彼女は言った。
「私ね。あなたの真似をして詩を書いてみました」
 そう言って彼女は詩の書いた便箋を僕に渡した。
「恥ずかしいからここでは読まないで下さいね」
 そう言ったエリゼは少しうつ向いて顔を赤くした。僕はそれをとても可愛く思った。
「ありがとう。きっと大事にします」
「カミルさん……。私はあなたに言わなければならないことがあるんです」
「はい」
「こうしてあなたの演奏を聴く機会もなくなるでしょう……。実は私、エスペラート辺境伯のもとへ嫁ぐことになりました」
 突然のことに茫然自失となってしまった。
「……それは、おめでとうございます」
 僕は深々とお辞儀した。
「本当にそう思いますか? 相手はヴォルハラ城の好色なおじさんですよ」
 エリゼはとても悲しそうな顔をした。
「……」
 僕は何も言うことが出来なかった。
「私はあなたが羨ましい」
「え? 本当にそう思いますか? 貧しくて食べ物にもことかくこともあるし辛いこともたくさんありますよ」
「いいんです。たとえ食べ物にも困ってもきれいなドレスを着なくても、辛い労働をすることになっても。私は自由になりたい。あなたのように生きてみたい……」
 エリゼの瞳から涙が溢れ落ちた。お金持ちで何不自由なく暮らしていると思ったエリゼがこんな悲しい顔をするなんて。
 その時、僕の心臓がどくんと鳴った。そして懸命に頭を働かせて未来を想像した。ヴォルハラ城で王妃として暮らすエリゼお嬢さんの未来と貧しい楽士の僕と一緒の未来。果たしてどちらが幸せなのだろう。
 もしここでお嬢さんと逃げたら僕は追われるだろう。一国の妃になるはずだったエリゼをさらったとなると、殺されるかもしれない。エリゼの父のバースさんは血眼になって探すだろう……だけどこのまま見過ごせば彼女はお嫁に行ってしまう。そうしたら一生後悔するだろう。……僕はどうすれば……いいや、このお嬢さんのためなら殺されたっていい。僕は彼女を自由にするのことが運命なのかもしれない。
「エリゼさん。僕についてきて下さい!」
「え?」
 エリゼの顔がぱっと輝いた。
「今すぐお屋敷を抜けて駅に向かいましょう。今夜中に国境を抜ける列車に飛び乗るのです」
「うれしい! 私、いつも夢想してました。あなたに旅に出ることを。……だけどカミルさん。おじいさんは大丈夫なの?」
「実は……祖父は3ヶ月前に亡くなったのです。ずっと黙っていて申し訳ありません」
「そう……おじいさんには優しくして貰ったのに……」
 エリゼは悲しげな顔をして涙を流した。
「ありがとう。祖父のために泣いてくれて。……でも時間がありません。すぐに準備出来ますか?」
「ええ服だけ着替えさせて。自由に使えるお金も50ルピーほどあります。セシルにはうまく言い含めておきます。大丈夫、彼女は味方です」
 その晩僕とエリゼは窓から外へ出るとそっとお屋敷を抜け出した。そしてそのまま駅まで走って行った。彼女は長い髪をまとめて帽子に隠し男物の服に着替えていた。とりあえず弟ということにしておこう。
 息を切らして駅に着いたとき、丁度停止中の貨物列車があった。その中の一台の家畜車の天窓が開いているのを見つけると、駅員が向こうに行った隙に家畜車をよじ登って忍びこんだ。そして天窓から片手を出してお嬢さんを引っ張り挙げた。首尾よく隣国パーセルランド行きの列車だった。切符を買って乗り込めばエリゼの正体がバレると思ったのだ。家畜車の中には干し草が敷いてあって温かった。青果の入った木箱をたくさん置いてあったので僕は中からりんごを二つ失敬してエリゼと一緒に食べた。食べ終わったりんごの芯を牛にやったら、牛は舌を伸ばして僕の顔を舐めた。エリゼはあどけなく笑った。
 やがて列車は盛大な汽笛を鳴らして走りだした。黒煙が家畜車の中まで入ってきて目に沁みて涙が出た。
 僕の荷物はヴァイオリンケースと詩集の入った鞄と財布だけ。
 見つかれば殺されるだろう。僕は小刻みに震えていた。だけど心は不思議と清々していた。エリゼを見ると不安そうな顔をしていたので僕は笑った。そして思い切ってエリゼの手を握った。エリゼの小さな手は氷のように冷たかった。
「寒くない?」
「ええ、あなたと一緒だから」
「パーセルランドへ行ったら港へ行こう。そこから南の国へ行く船に乗るんだ」
「南の国?」
「うん、そこには芸術を愛する人がたくさん住んでいると聞く。きっと楽士として働き方口があると思う。……怖い?」
「ええ、南の国なんて本でしか読んだことがないもの。怖い化物がいるんじゃないかしら」
「ははは。それはおとぎ話さ。南の国は冬でも暖かいらしいよ」……それにそこまで行けば追っ手は来ないだろう。
 空には満月が浮かんでいて天窓から月の光が射し込んでくる。
 僕は震える心を落ち着かせようと自分に語りかけた。……きっとこの先何があっても大丈夫だ。どこかのお屋敷で楽士として雇って貰えるだろう。エリゼには僕の書いた詩を歌って貰おう。そのためにたくさん練習して上手くなろう。給金を貰ってどこか下宿を借りてふたりで住もう。エリゼはきっと僕が守ってみせる。僕は心の中からとても熱い力が湧いてくるのを感じた。


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