031.「超ド(ドレッドノート)級」戦艦の完成
さて、維新後に政府は殖産興業・富国強兵をすすめる政策を展開し、戦艦づくりを目指して1857(安政4)年、長崎に造船所「徳川幕府 長崎鎔鉄所」を、さらに、1865年にはフランスの協力を得て横須賀に修船と造船のための製鉄所を作ります。横須賀製鉄所は翌年には造船所と名称が変えられました。
1875 (明治8)年には、軍制がイギリス式になったことで横須賀製鉄所にイギリス人技師2名を採用。自前で船舶の建造の準備をすすめる一方、イギリスに戦艦を発注し、技官を送り込んで軍艦づくりのノウハウを学ばせます。このときイギリスに発注されたのが、後に日露戦争(1904-05年、明治37-38年)で旗艦となった「三笠」(1902年完成)などでした。
そして技術を持ち帰った技官らが中心になって、自力で建造する道を歩みます。1878年になると、海軍省直属となって待望の軍艦第1号「清輝(せいき:897トン、全長61メートル)」、続いて砲艦磐城(1464トン、350馬力)を、国産第3艦「天城艦」を進水させます。天城は938トン、720馬力、乗員160名。クルップ式の砲門を備えた3本マストの国産初の巡洋艦でした。いずれも木造艦です。
その後、長崎、横須賀に続いて広島・呉、神戸に造船所をつくり、各地で競うように戦艦が作られ、1887 (明治20)年には鋼鉄鉄皮の砲艦愛宕(621トン)を進水させ、続いて、海防艦橋立(鋼製、4,277トン)、巡洋艦秋津洲(鋼製、3,189トン)を完成させます。
世界の戦艦が、木造艦から鉄骨木皮艦、鉄製艦、鋼鉄艦へと急速に変化していましたが、かんじんの艦船用の鉄材はイギリスから輸入せざるを得ませんでした。殖産興業や富国強兵と号令をかけても、機械・設備や大型軍艦づくりには良質の鉄材が欠かせません。課題は国内には良質の鉄鋼を量産する技術がなかったのでした。
古来、日本の鉄づくりは、砂鉄を採集し、木炭で加熱し、たたらと呼ばれるふいごで風を送って高温にして溶かす、たたら製鉄法が用いられてきました。これで作られる玉鋼は、硬さがあって曲がりにくい特徴があり、刀剣の切れ味を向上させたり、農具、生活用具などを作ったりするには良いのですが、しなりがなく曲げると折れてしまいます。柔軟性が求められる構造物には適しません。
そこで、たわんでも折れにくい均質な構造物用の鉄鋼を生産するために、西洋式の反射炉・高炉などの製鉄技術が導入されました。
こうして、1880(明治13)年の釜石製鐵所がつくられ、1901(明治34)年に官営の八幡製鐵所が操業します。日本が構造物用の鉄材を自前で調達できるようになったのは、八幡製鉄所が何とか安定して鉄鋼を生産できるようになった1905年あたりからでした。
そして1910(明治43年)、広島・呉の海軍工廠で自前の鉄材、技術で西洋式の大型戦艦「薩摩が作られます。全長137.2メートル、排水量19,372トン、推力は石炭による焼玉エンジンです。
続いて、大正時代になると、巡洋艦「榛名」(26,330トン、1914年、神戸・川崎造船所)、「霧島」(27,000トン、1915年、長崎・三菱造船所)を建造。
1920年(大正9年)になると、世界最強35,000トン級の戦艦「長門(呉工廠)」、「陸奥(横須賀海軍工廠)」を作りあげるまでになります。
この長門、陸奥は、当時世界最強と言われた英国の戦艦「ドレッドノート」(1906年竣工)を上回る航行速度や大砲などを備えた戦艦として建造され、「ドレッドノート」を超えることから、スーパー・ドレッドノート・クラスということばで表現されるようになりました。これが日本語に訳されて「超ドレッドノート級(超ド級)」という言葉が生まれました。
最近は、甲子園で活躍する選手に「超高校級」「超ド級」などと使われたりしますが、もともと「英国の戦艦ドレッドノート」から生まれた表現でした。この「級」という戦艦の形式表現は米海軍の空母でいえばニミッツ級、ジェラルド・フォード級などに生きていて、日本ではいずも型、ひゅうが型などで表現されています。
黒船が来航した当時、日本の産業技術力は西洋と比較にならないレベルでした。その日本が、明治維新を経て富国強兵をめざした50年後、1910(明治43)年に自力で最初の軍艦を作ってからわずか10年後の1920年にはイギリスに追いつき、それらに匹敵する世界一のレベルの戦艦を建造する能力を持つまでに至ったのです。ノウハウを学び、応用する能力とキャッチアップの速さ、ものづくりへの適応性は見事というほかはありません。
つい50年ほど前の維新(1868年)まで、世界史からこぼれ落ちていたような東洋の小さな未開の国が、またたく間に力をつけて、列強をしのぐ軍艦を建造するようになった、その潜在力は、列強の目には、大きな脅威と映ったに違いありません。