真夜中を縫って病む
私、夏はあんまり病まないものだと思ってた。
いや夏こそ病むんだなあ。たぶん私のような厄介者限定で。もちろん厄介者とは、私が私を処理できてないからという由来であるが。それに加えて
周りと反対のことをしたくなる、みんなが浮かれていたら自分はなんだか違和感を覚えてしまうような、そんなひと。
ある意味周りのことを見ているようで独りよがりなんだ…。
独りよがりと言われた。やっぱりばれていた。
どうにもならないと分かってるから、自分にすらどうにもならないと悟りたいから、受け入れるために自分の中で消化したいだけであって。
周りのことを信用してないとかじゃない。
周りのことは本当に尊敬していて他人が欲しいとか、好きとか、あるけれど。
私は嫌悪よりも好きって言う気持ちの方が怖いんだ。だから何も考えたくないんだ。
この気持ちも朝起きたら冗談だって笑えるほどの軽い感じでいたくて、なにも、残ってなくて、自分を何も刺さない透明のガラスだけが残ってればいいと思う。だから熱しやすく冷めやすいのかもしれない。私なりの自己防衛なのかもしれない。
まずまず人生っていうのは、思い通りにうまくいくって、そういう成功体験に価値を置いているからしんどいのかもしれない。
期待も希望もいいスパイスだけどやがて自分を傷つけるんだろうなと思ったら何もいらなくなった。
歯がゆいポジティブだけが自分の中に溶け込んで、必死でネガティブを求めてそれを逐一否定して証明している。
光が強ければ影も強い。
周りが明るくなるほど自分が影るのは、仕方ないんだろう。
なるほどこの世は私とはむかんけいにうごいてきくこともあるのだと。
そう思ったら私の居場所はどこなんだと笑いたくなった。
自虐してそこに残るのはいったいなに。
歌でもかければ、私のこの絶望は無駄にならずに済んだのか、
これはなかったことにするべきものなのか、果たしてこれはいつか役に立つからと取っておいた方がいいものなのか。
もう、何も欲しくないのに、何が欲しいか分からないのに、求めて。犬がしっぽを追いかけてクルクル回るように、虚像ばかりを追い求めて倒れる。
これは悪いことなんかじゃないよな。
悪いと思うから解決しないといけないわけじゃないって知った。
この鬱さも憂いさも全て私を彩る影になればいい。ナルシズム主義で生きていく。その度に病んで、糧にする。もうそれが私にとって生きるなんだろうと思えば、それは悪いことなんかじゃない。
あと最近考えたことで言えば。
難しいつまり解決ほぼ不可能となったときに
簡単な結論を出しておわらせるのいうのは逃げなのだろうかと言う点。
これは自分にも他人にも言えることだが、
いやそれは分かっているだけども…。というなんともいえない腑に落ちない何かが生まれることがある。
これはたぶん全ての問題解決というのはここに帰着して、実のところ腑に落ちればそれでいいのかもしれない。
腑に落ちないというのは消化できないということだから、それを抱えたまんま生きることになる。
それをどこまで背負えるかという問題。
しかし、腑に落ちるというのはどうしても、自分の核の部分が処理するもので全ての根源だからどうしようもない。
結局それを持ったまま受け入れたまま生きるしかないのだ。
これは悲劇なんだろうか、それともあるひとつの答えなんだろうか。
まだわからない。また、かいていく。