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【知られざるアーティストの記憶】第82話 T大学病院からS医院へ

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第12章 S医院に通う日々

 第82話 T大学病院からS医院へ

「ハオルシアのハオルくんには、月に一度だけ、たっぷりと水をあげるんだって。お店の人が教えてくれた。私がお迎えしたのが12月26日で、その日にたっぷりあげてあるから、毎月26日をお水やりの日にしたらいいね。」
生真面目な彼は、こういう決められたルーチンを忘れずにこなすことには長けていた。26日になると、風呂場のシャワーでたっぷりと水をかけ、受け皿の水が落ち着くとまた自室のチェストボードの上に戻した。彼は毎月その日になると、マリに言われなくとも忘れずに朝一番にそれを行った。彼が元気な間は……。ハオルくんはいつも変わらぬ瑞々しい顔で、じっとこの部屋の住人たちを眺めていた。

マリが入院中の彼にプレゼントとして届けた月めくりカレンダーは、彼の作業デスクの前に掲げられたマグネットボードの右下の隅にちょこんと貼られていた。このデスクもマグネットボードも、彼の部屋にある家具のほとんどは彼自身による手作りであった。長いこと何も貼られていなかったマグネットボードの、広い面積の隅っこを、ポストカードサイズの月めくりカレンダーが遠慮がちに占めていることにマリが気がついたのは、彼が退院してしばらく経ってからだったが、おそらく彼は退院の荷をほどいたと同時にそこに掲げたのだろう。どことなく彼に雰囲気が似ている三角帽子の小人のイラストを彼が気に入ったのか、マリに気を遣ってそうしたのかは分からないけれど。


彼の部屋にかかっているときのマグネットボード
画面いっぱいでサイズ感がちっともわからないが、
横84センチ×縦89センチくらい
とても丈夫な木で作られていて、重みがある
小人のイラストが描かれた月めくりカレンダー


彼は退院して間もない頃、隣家のおじいさんからマリについて尋ねられたそうだ。
「女性が雨戸を開けに来ていたみたいだけど、親戚の子なの?」
「うん、まあ……。」
とそれに対しては濁しつつも、
「信頼して全部任せているんだ。」
と彼はおじいさんに説明したという。このことは、彼もマリに話したが、彼が亡くなってから仲良しになったおじいさんからものちに教えてもらった。


ハオルくんとサイカチの木
ハオルくんは徒長して瀕死状態


2022年1月27日の朝、彼はT大学病院には行かなかった。
「でも、あなたは今日、行くことになっているんだから、連絡なしに来なかったら看護師さんや先生も心配するんじゃないの?これまでも、献身的に治療や看護をしてくださったんだし、理由はともかく、行かないという意思を連絡したほうがいいんじゃないの?まあ理由も聞かれるだろうけど。」
「そうだな。連絡しないでおこうかと思ったけど、それじゃあ電話するよ。」

「とにかく、一度話しに来て下さい。」
連絡を受けたH医師の言葉を、電話に出た受付の人が取り次いだ。それを受けて、彼は27日の午後または翌日にはT大学病院に出向き、H医師と面談をした。

「H医師から、抗がん剤治療を続けるようにずいぶん説得されたよ。S医院の療法についても聞かれたから話したけど、そんなサルノコシカケ茶なんかで治るわけがないって。それがやりたいのなら、抗がん剤治療と十分併用できるはずだ、って。私は『もう、抗がん剤はやりたくありません。でも、もし何か事情が出たら、またお世話になるかもしれません。そのときはよろしくお願いします』と言って来たよ。」

T大学病院の抗がん剤治療と、S医院の抗がん剤を使わない療法は、目的地の異なる二艘の舟のようなもので、その併用という道は考えられなかった。この時点で、抗がん剤治療とは決別してS医院の療法に委ねることに決めたのだから、こうするより他にないとマリにも思われた。

1月27日の朝9時20分頃、マリの夫は自宅の前に車を停め、助手席にイクミを乗せた。イクミは乗るときに、
「よろしくお願いします。」
とかなんとか、一言くらいは声をかけて乗ったのだったと思う。しかし、ほんの軽い一言に過ぎなかった。後部座席にはマリが乗っていた。前に座る二人の間には一切会話がなかった。

「一番早くて、マリにとってわかりやすい道で行くよ。」
夫はマリにそう言って、かつてマリが毎日送迎をしていた次男の特別支援学校のそばを通る道を選んだ。S医院までの道のりには、幾通りものルートが存在したのだ。イクミは存在を感じさせないほどに押し黙っていたので、車の中はいつもの夫婦だけの空間であると錯覚するようであった。今回の送迎を申し出た夫の様子を伺いながらマリが話を合わせた結果、道中はS医院へのルートの話題に終始した。いたっていつも通りの夫婦の会話の中で夫は、これから毎週愛人の通院送迎を行う妻のために、わかりやすく道を示したのであった。

「ここ、みたいだな。着いたよ。」
夫は古びた小さな医院の前で車を停めた。


初めて彼を受け入れた2022年1月27日のS医院
よく見ると右側に陽光がきらめいている
先日、彼の二度目の命日に久しぶりに訪れたときにも
私は同じアングルで写真を撮っていた。

「それじゃあ、気をつけて。」
夫は二人を降ろすと、あくまでもマリに声をかけた。イクミは静かに車を降りた。S医院の扉を前にしてひどく緊張しているようであった。

「ほんとは車の中でキミの夫に、メイさんにもツインレイがいる話をしようかと思ってたんだけど、やめた。なぜかと言うと、初めての病院に行くからだよ。そういうときは、話をする気分にはなれない。」
と彼は数日後にマリに明かした。そんなことを考えていたのかとマリは驚いたが、その話題はあの空間でしないでくれて正解であったと胸をなでおろした。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。

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