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【知られざるアーティストの記憶】第83話 T 医師との出会いと治療への同意書

Illustration by 宮﨑英麻

*彼は何も遺さずにひっそりとこの世を去った。
知られざるアーティストが最後の1年2ヶ月で
マリに遺した記憶の物語*

全編収録マガジン
前回

第12章 S医院に通う日々

 第83話 T医師との出会いと治療への同意書

階段を登り、ガラス扉を開けると、狭い待合室の中央奥の受付の中に、小さくて丸っこい、おかっぱ頭に眼鏡をかけたおばちゃんが座っていた。院長先生の奥さんであるのか、そうでないのか、とにかくその人は年齢に関わらず、「おばあちゃん」ではなく「おばちゃん」と呼ぶのがぴったりの風情であった。マリはこの人とすでに電話越しには話したことがあった。

「昨日お電話をしたワダイクミです。あのう、私は家族ではなく、付き添いの近所の者ですが、今日は同席しても構いませんか。」
おばちゃんは、ちょっとお待ちください、と診察室に入っていき、先生に確認を取った。
「どうぞ、一緒に聴いていただいて構わないそうです。」
おばちゃんはゆっくりとした動作と口調でマリに伝えた。
「はい、ありがとうございます。」

待合室の壁には、T院長の取得した免許や資格の認定証が天井際にぐるりと貼られていた。医師免許は北海道の医大のもので、旧漢字が使われ年代を感じさせた。横文字で書かれたライセンスはおそらく「バイ・ディジタルO-リングテスト」のものであろう。壁の下方には、院長のこれまでのブログ記事や癌治療に関する新聞の切り抜き、S医院が採用している療法に関する雑誌記事などがびっしりと貼られていた。マリはそれらを順番に眺めた。どちらかと言うと、ほのかな希望に彩られながら。彼もまた、あちこちの壁に視線を向けていた。

「ワダさん、お入りください。」
中から院長の声がして、二人は診察室の中に入った。マリは患者用の椅子の真横に置かれた椅子に腰かけながら、最大限感じの良い・・・・・笑顔を湛え、敬意を込めた視線を院長先生に向けた。あくまでも付き添い人として出過ぎないよう、しかし彼の受け答えが不足するときには補足をしようと、自らの立ち位置を胸の中で確認した。

先生がこれまでの病気の経過について尋ねたとき、
「大学のスクールバスの誘導員として働いていたんです。そしたらそこの同僚に暴力を振るわれて……」
と、彼はなぜか弟のことを話し始めた。おそらく、彼は自分の病状と弟の病状がリンクしているような気がするという文脈から、自分の病気のことを説明するつもりであることがマリにはわかったが、今ここでそれを話すのはさすがに少しずれすぎているので、マリは割って入ろうかとおろおろし、心に汗をかいた。


©Yukimi 彼のスケッチブックより 落描き、色見本


しばらく彼の話を聴いていたT先生は、次第にどうにも脈絡がつかめなくなり、先の漢方内科F医院の院長のときのように目を白黒させ始めた。気の弱いF院長と違ったのは、T先生はすぐさま
「それは誰の話ですか。」
と彼に突っ込んだ。
「弟の話です。」
彼は当然のようにきっぱりと答えた。
「その話はいいです。」
T先生は低く険しい声で彼の話を打ち切った。そのときのT先生の顔には、失望の色が明らかに見て取れた。
(すみません。うちの人、少し変わっているもので。)
マリはこのとき、またやってしまったという感覚の中にもどこか、これまでたくさんの患者たちを相手にしてこられたはずである老医師の包容力に対して、無邪気な信頼を寄せていたのであった。

T先生はS医院で行っている治療の流れについて簡単に説明をした。

① エネルギー治療
② 自律神経免疫治療
③ 矢追インパクト療法
④ バイ・ディジタル O-リング テスト

S医院ホームページより

ホームページの最初に謳われている「エネルギー治療」は、実は治療効果の約8割を占めるとT先生の著書(註1)には書かれていたが、このときにはほとんど語られなかった。おそらく、言葉で話したところで理解を得るのが難しい分野のためであろう。要するに、「診察や治療の間中、先生が患者に氣を送っている」という説明で、当たらずといえども遠からずではないかと思う。

「自律神経免疫治療」とは、手足の爪の生え際の角にある井穴せいけつというツボを磁気針によって刺激することで、自律神経のバランスを整え、免疫細胞を含め全身の細胞が正常に働くように調整する治療法である。もう一つ、これが「矢追インパクト療法」に当たるのだと思うが、両脚の外くるぶしより指3本分上あたりのツボに太めの針を突き刺す。また、竹串のような先の尖った棒で頭のてっぺんの百会あたりを強くぐうっと押す。最後に、マシンを使った精密なO-リングテストである「 バイ・ディジタル O-リング テスト」で癌の指標を測定する。

「この一連の治療を初めは毎週受けていただきます。そしてだいたい、2ヶ月から4ヶ月すればがん細胞が増殖できなくなりますから、治療は隔週になります。」


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』P・31(グラフィン紙あり)


二人は一旦診察室を出され、おばちゃんから治療への同意書(註2)にサインを求められた。一読すると、この治療を受けたことによるいかなる結果に対しても医師に責任を追及しないという旨の誓約が記されていた。本人の自筆の他に、連帯保証人の欄があった。彼は、
「キミが書いてくれれば問題ないよ。」
と言うが、療法の選択や保証人というものはそう軽々しいものではない。後々親戚たちから責め立てられでもしないかと、マリは、
「私じゃなくて、ノリオさんに連絡して書いてもらったほうが、後々いいんじゃないの?」
と怯んだ。成り行きを静観していたおばちゃんは、少し困った様子で控えめに口を開いた。
「そうですか。これはそんなに大袈裟なものではないし、あなたが書いても何か問題が起きたりはしないと思いますけれど。どうなさいますか。一度、持ち帰りますか。」
マリは二人からの期待の目線に背中を押されるように、同意書に名前を書いた。

(註1)田中 二仁 (著)『癌 死病に非ず されどガン』2014/2/3、三和書籍 
現在は私の手元にはないので、執筆は本書を参照せずに私の記憶の範囲で行っている。そのため、S医院の療法に関する記述は不正確な表現を含むものと思われる。

(註2)この書類も提出してしまって手元にないため、「同意書」というタイトルだったかどうか不明である。

つづく

★この物語は著者の体験したノンフィクションですが、登場人物の名前はすべて仮名です。


©Yukimi 『LAGRANGE POINT JMN-003』P・31(グラフィン紙なし)

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