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【続いてる写経 1601日め】”空”が”無”に陥るのは、『般若心経』筆者のミス?

前回、スリランカ小乗仏教の大長老、アルボムッレ・スマナサーラ氏の著作『般若心経は間違い?』を紹介しました。

小乗仏教の立場からすると、大乗仏教の経典である「般若心経」は、本来の釈迦の教えから離れており、内容は筆者(不明)の独自のものとなっているというのです。

長老は、有名な”色即是空 空即是色”の部分も、後者が不十分ではなく、それに続く後半もおかしいと言います。

実体がないことを「空」とするならば、

”是諸法空相”の部分はその通り。

ただし、その後「空」の議論が置き去りとなり、「無」の話になっていきます。

不生不滅 不垢不浄 不増不減 
是故空中無色 無受想行識 無限耳鼻舌身意 無色声香味触法
無眼界乃至無意識界 無無明亦 無無明尽 
乃至無老死 亦無老死尽 無苦集滅道 無智亦無得

いつも書いてるときに意識する”無無”部分。
”無”が何度も登場していくパラグラフ。

ここについて、

人は現れたり消えたりするでしょう?赤ちゃんから大人になると、体積も体重も増えていくのは当たり前でしょう?
(中略)
年老いるとボケてきて、想が減っていくでしょう?受想行識は消滅するでしょう?

一切の現象に実体はなく、因縁によって現れては消えているのです。現象の世界には消滅も増減も明らかにあるのです。それをまとめて否定してしまうと、「何もないなら、べつに実践しなくてもいいじゃないか」となる恐れがあります。その点で『般若心経』の作者は、相当な間違いを犯しているのです。

アルボムッレ・スマナサーラ著『般若心経は間違い?』

言われてみればそうですね…。

「不生不滅 不垢不浄 不増不減」というのは、論理的に理屈で放ち立ちます。しかし理屈は実際とは食い違ったものであって、ただの観念であって、頭の遊びなのです

同上

現象は空であると言うところまでは、パーリ経典と照らしても反対ではないのですが、なぜ空を論じていて唐突に「無」が出てくるのでしょうか?空と無は同じではありません。無は「有無」の「無」ですから、「何もないんだよ」ということで、結局、虚無主義になってしまうのです。

同上

観自在菩薩が修行をして悟ったと言いながら、次のセクションの「是故空中無色 無受想行識」と続く流れで、ブッダの解かれたすべての教えを無にしてしまう。大乗仏教であっても空思想を説く場合、有無の概念は使えないのですが、作者は大乗仏教の基本論理さえも、あまりわかっていなかったのでしょう。

同上

・・もう、けちょんけちょんです。(苦笑)

ワタシなど仏教に精通しているわけではないので、ロジカルに説かれると納得がいきます。
般若心経、いろいろ解説読んでもよくわからんというのは、この辺にあるのかもしれません。

そして、いちばん問題なのは、あの最後の呪文

羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい

の部分のようです。

(つづく)


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