自然という名の不自然
習慣にしていること、いつの間にか習慣になっていた事の一つ
「ひとり禅問答」
これからたまに書いていけたらと思う。
最近よく「自然」とか「ナチュラル」とか、とても良い意味で使われることが多い。
「自然がいい」とか、「あるがままがいい」とか。「自然の多い場所に行きたい」「自然をもっと大切に」とか。
この「自然」という言葉、みんな同じように使っているけれど、実は少しずつ使う人によって定義が異なっていると、私は思っている。そして、その「自然」という言葉の持つ抽象さ、曖昧さを突き詰めてみたとき、フッと我に返り、自分の思う「自然」とは何なのかを、問い続けている。
答えは出ていないし、そもそも答えがあるのかも分からないので、ちょっとここに書き留めておこうと思う。
みなさんの思う「自然」とは、どんなものだろうか。
「ありのままの姿」「ありのままの状態」とか、天然資源を差す「自然」もある。英語で言うところの "Natural" と ”Nature" の違いだろうか。
ここで一つ面白いのは、日本語だと「自然」という一言で言い表さられるものが、英語だと明確に分かれている。ちなみに同じラテン語系のポルトガル語だと "Natural" と "Natureza" (のはず)英語とほぼ同じ感じ。
つい数年前にとあるアニメーション映画で「ありのままの~」という歌が流行ったのも記憶に新しい。
ありのまま、生まれた姿のまま、またその物自体のこと=自然
こんなくくりになるのだろうか。
はたまた全然違うことを思っていらっしゃるのだろうか。
そもそも、私たちが普段「自然」という言葉を使う時に、その定義をきちんと意識したことがあるだろうか。
私が尊敬している人の中に美輪明宏さんという方がいらっしゃる。多くの方はご存知だと思うが、自分の人生に相当悩んでいたころに著書を拝読し、心が救われた経験がある。美輪さんがテレビでおっしゃっていた非常に的を得ているなと思った言葉がある。端的に言うと
「よく、そのままの君で良い、なんて言う人がいる。でも、畑の大根を引き抜いて泥付きのまま食べろと言われて、誰がそのまま食べるのか。きれいに洗い、なんなら包丁で食べやすい大きさに切ったり、味付けしたりして、初めてハイ召し上がれと言うんじゃないのか。」
私はこの言葉を聞いた時からずっと、このロジックが頭を離れない。
人間というのは、結局とどのつまり「ありのまま」では生きられないし、そもそも人間の行いはある意味全てが「不自然」な事ばかりなのではないか。
そう考えると、一体何を人は「自然」と呼んでいるんだろう。
学生時代に影響を与えられた人の一人に「グランドファーザー」がいる。これはアパッチ族の実在した人物として本の中で描かれているのだが(本当に実在したのか、証拠のようなものが示されているわけではない)このグランドファーザーの教えを継承していた私の恩師がこう言っていた。「人間はこの地球上のケアテイカー(護り人)なんだ。」人間の行う行為は全て、この地球にダメージを与える事のように見えるかもしれないが、実はそうではなく、本来はこの地球を長く持続させるために必要な存在だと彼は教えてくれた。例えば、健康な森を育てるためには、そのままにしておくのではなく、人間が必要な手を加える事が必要なんだと。
これはある意味「ありのまま」的「自然」ではない。「自然」を永らえるために必要な「不自然」な行為がある、あって良いと言っている。
つまりどういうことだろうか。。。
「自然」な状態というのは、ただ「ありのまま」ということなのではなく、実は「ありのまま/これまでと同じに近い状態」のことで、それを永らえるためには意識的に「不自然」な行為が必要ということか。
そして、その意識的に行われる「不自然」な行為が、どんな手段で、どのような範囲で行われるのか、これはその人それぞれの目指す、または考える「自然」な状態についての定義や価値観によって変わるのではないか。
そうなると、一括りに「自然」とか「ナチュラル」とかいう言葉を使って、物事を説明したり測るのって難しいなぁ。
例えば、実際に地球温暖化を招いている現状は、人間が行ってきた「不自然」な行為が「ありのまま/これまでと同じに近い状態」を逸脱する状況が招いた結果として捉えられるかな。もし、これまでと同じに近い状態に戻す事が必要だとすれば、やはり人間の行いを修正する必要があるのだろう。
でも、この「ありのまま/これまでと同じに近い状態」のゴールって、どこなんだろうか。
一人禅問答は続く。
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