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世界には3種類の「会話のテンポ」があるらしい

講師
「あのね、世界には3種類の会話のテンポがある、と私は思っているの」

先日投稿したように、僕は今年ヨーロッパのビジネススクールに参加して、短期プログラムのリーダーシップ研修を受講した。その中の講師の一人が、僕に持論を語ってくれた。

この会話に至る背景は、以下のようなものだった。

僕が受講したリーダーシップ研修には「コーチング」の半日セッションが組み込まれていた。コーチングとは、上手に相手の話を聞いたり、相手に考えさせるような問い掛けをすることによって、相手が話しながら思考をまとめたり、考えを進めるお手伝いをすること。みなさんも、うまい聞き役の人と会話することで、自分の考えがスッキリとまとまっていった、という経験があるのではないでしょうか。

僕は自分のnoteの名前が「世界の人に聞いてみた」というくらいなので、人の話を聞くことは基本的に好きなこと。苦にならない。

一方で、先日のビジネススクールの記事で書いたように、他の研修の受講者たち(ヨーロッパや中東・アフリカなどからの参加者)は、授業でとにかくガンガン発言する。教授の発言を遮ってでも、「オレの話を聞け」とばかりに積極的に声を挙げる。

会話に割って入るタイミング、これがみなさん絶妙。発言者が息継ぎした瞬間に会話に滑り込んで、魔法のように会話の主導権を奪う。

それは例えるなら、サッカーでドリブルしている人のボールを、まばたきした一瞬の隙に奪い去って自分のボールにする。そんな華麗な技が目の前で繰り広げられているような心地になる。

でも一方で僕はというと、その躍動感あふれる会話の主導権争いはあまり得意ではない。僕にとってはサッカーのようなアクロバティックな会話のやり取りよりも、どちらかといえば野球のような秩序だった会話のスタイルの方が心地よい。

ドイツで仕事をしていた時には、会社の規模が小さく少人数の打ち合わせが日常だったし、周囲も信頼している人たちばかりで、発言に躊躇することはなかった。ここで自分が言わねば!という場合では、相手の発言にカットインすることも全く厭わなかった。

ただ、研修は30人を超える人たちの集団で、かなりアグレッシブな雰囲気。しかもみなさん初めてお会いする人たち。無意識に自分のガードが上がっていたのだろう、その状況の中で自分が発言するときには、前の人の会話が確実に終了したと感じられる「一瞬の時間のブランク」を経なければ、話し始めることを自分の体が許さない。その“一瞬の間”を確認することを、自分の体が求めていた。

しかし現実には、その“一瞬の間”を確認しているあいだに、もう既に他の人が自分の話題をしゃべり始めている。まるで、目の前のボールをドリブルしようと足を出しかけた瞬間に、僕ではない誰かが自分のボールとしてドリブルを始める。そんなことが何度もあった。

コーチングの授業で言ってみた

そんな様子でプログラムは進んでいき、ある日に半日のコーチングセッションを実施した。授業が一通り終わってクロージングをむかえる頃、受講者たちがコーチングをやってみた感想を思い思いに挙手して発言していく段になった。

受講者の声①
「相手の話を聞いていて、僕にとっての答えがみえてきたら、もうそれを言ってやりたくなってしょうがないよ。じっと黙っていて相手に発言してもらうなんて、できやしない」

受講者の声②
「コーチングって、アドバイスしちゃダメなんだよね。辛抱強く口を閉じて聞き続けることが、こんなに苦しいとは思わなかった」

と、みな「黙って話を聞いていることは苦行」という趣旨の発言ばかりだった。

そんな発言が飛び交う中で、僕は共感しかねていた。いやいや、必ずしも人はみんなそういうものではないぞ。これは、僕の心境をみんなに伝えねば!と思って発言した。


「あのですね、少なくとも僕にとっては、コーチングで聞き役をこなすことは全く苦にならないです。日本では目上の人の話を静かに礼儀正しく聞かなくてはいけないという社会的な圧力があって、ひょっとしたらそれで我慢強く聞くことに慣れているから、なのかも。でも一方で、僕にとっては研修でみんなが次々に発言していく中で、その流れに割って入って会話を主導することの方が、全然容易ではないと感じています」

と、僕が感じていた心境をみんなの前で発言してみた。するとザワザワとして、

「おお、それは文化の違いだ」

受講者たちの口から、そんな声が次々に聞こえてきた。

やはり、東アジアからの唯一の参加者である僕がそのような感想を伝えると、礼節を重んじる穏やかな東アジア文化によるものだ、とみなさんは感じて腑に落ちたようだ。

授業が終わってからのこと。コーチングの講師の一人が僕に近寄って、話しかけてきた。彼女はとっくに還暦を過ぎたくらいの女性。

講師
「あなたの発言は、とっても興味深かったわ。だから、今後の私の講義のときには、あなたが話してくれたことを紹介させてもらうわね」

と言って、僕にウインクして帰っていった。

夕食の時に

その数日後。参加したプログラムの最後の夜は、公式ディナーの日。講義が終わってから街のレストランに移動して、みんなで夕食をともにした。

僕が座った隣の席は、たまたまその講師。世間話をしている中で、再び僕の発言が話題になった時に、彼女はおもむろに手帳から紙を取り出して、僕に図示してくれた。それが冒頭の言葉だった。

講師
「あのね、世界には3種類の会話のテンポの文化がある、と私は思っているの。特に、人数が多い会議とか公式な場になればなるほどね」

と言って図示してくれたのは、次のようなものだった。

講師
「まず、世界標準の会話のテンポ。それは、こんなタイミング」

講師
「次にね、2つ目は日本人のテンポ。こんなタイミングじゃない?」

彼女が書いた線はこのようなものだった。

発言の間があいている

たしかにこのテンポだよな、と納得できる。普段の会話ではそこまで顕著ではないかも知れないけれど、ある程度公式な場では、会話の間に独特の間が必要とされる。そのテンポは体に染みついていて、その”間”を侵すことを体が許さない。

つまり、この日本独特の”間”が、発言を困難にさせる要因ということだった。

ちなみに、話はそれで終わらなかった。

講師
「そして最後。それはイタリア人のテンポで、こういうタイミングなの」とニッコリ。

発言がしばし重なり合ってから、ようやく次の発言者に主導権が移る

ああ、イタリア人のアレね、と笑ってしまった。

そう、イタリア人の会話は、このテンポで進んでいく。会話では相手が喋っていても、それに文字どおり会話をかぶせて放り込んでいかないと、永遠に自分が喋る機会は訪れない。

イタリア人が全員というわけではないんだけれど、この会話のテンポは「イタリアあるある」だと思っている。

そして、この日本人とイタリア人の会話のテンポの違いについては、僕がむかし書いた記事で書いたことがあるので、ここからは僕がむかし書いた記事をダイジェスト版で再掲してみる。

ーー(2年前の記事のダイジェスト)ーー

或るイタリア人の耳

今回は、ずっと前に働いていたドイツの会社で同僚だったイタリア人について。

彼は元々エンジニアだけど、その後に営業へ職種を変えた。性格的にどんなタイプかというと・・・明るく楽しくて、憎めない人。そして「とにかく人の話を聞かないで、ひたすら自分で話をする」タイプだった。

「話し合いと合意は別次元でしょ」

その会社で、集合研修に参加した時のこと。ヨーロッパ中の同僚が集まっていて、当時の僕も参加した。まだドイツで働き始めて1年くらいしか経ってなかった頃だと思う。

みんなグループに分かれて、各グループごとに「仕事をするときに大事にしていること」というテーマについて議論する、というお題が与えられた。

みなさんそれぞれが考えを述べて、それについて意見を言い合って。というのを何人かやった後で、僕の順番が回ってきた。


「僕は”話し合いと合意”を大事にしている。仕事をするにあたっては、関係者としっかり話し合った上で、目的や進め方を合意した上で取り掛かりたいと思っている」

といった趣旨の説明をした。

この回答は、日本においては「みんなが納得してくれる無難な答え」であり、ある意味で「答えを当てにいった」ような無難な回答だと思っていた。だって日本人の僕としては、「話せばわかる」という価値観は異議なんて出ようがないだろう、と無意識に信じ込んでいる面があったから。

そんな説明をしたところ、イタリア人が不思議そうな顔をして質問してきた。

イタリア人同僚
「あのさ、なんで関係ない2つのことを、まるでセットみたいに話すの?」

という不思議そうな顔を前にして、こちらもその質問の意味がピンとこなくて不思議な心持ちだった。

で、よくよく聞いてみたら。

要は「しっかり話し合うことと、合意に近づくという事は、全然関係ない別のことでしょ」という意識らしい。彼にとっての話し合いとは、お互いに自分が信じる持論を延々と喋るだけで、合意に至るかどうかはあまり気にしていない様子。

つまり「議論と合意の大切さ」とは、必ずしも世界中の人たちみんながストンと理解できることではない、ということを理解した。

もちろん、議論がとても上手なイタリア人もたくさん知っている。けれど、この彼のケースについて言えば、話し合いというのは議論というよりも、持論を表明する場だったり自己表現の場という意識みたい。

息継ぎせずに話す

そんな彼について、みんなが不思議に思って見ていることがある。その彼は喋りながら「息継ぎ」をしない。一体どんな魔法なん!?って聞きたくなるほど、呼吸を挟まずに延々と話し続ける。

従って、ヨーロッパに来て間がなかった奥ゆかしい日本人の僕としては、話に口を挟むタイミングがなくて、延々と話を聞き続けるしかなかった。

そう。誤解を恐れずに言えば、ある種のイタリア人同士の会話を見ていると、常に「オレが/ワタシが話してやるぞ!」と虎視眈々と会話の主導権を狙っている。そして喋っている人が息継ぎをする瞬間を逃さずに、話に割り込んでくる。そうしないと、永遠に人の話を聞き続けることになる。

これは同じラテン系の国、スペインでも同様の様子。スペイン・アンダルシア在住の唐草さんの投稿では、こんなアンダルシアの日常が克明に描かれている。

ルイスが息継ぎをする瞬間を見て、すかさずレモンに話題を変えた。

note界の人気者、唐草さんの投稿

そう、南欧の人たちにとって会話中の息継ぎとは、会話の主導権を奪われてしまう、忌むべき行為なのです。

環境に適応した進化

話を戻して、そのイタリア人同僚について。彼は、生き馬の目を抜くような熾烈な会話の主導権争いが繰り広げられるイタリア人同士の会話の中で、いったい息継ぎをせずにどうやってしゃべり続けているのか?

僕の推理では、耳で呼吸をしているに違いない。

そう、そのイタリア人同僚の耳は、人の話を聞くために付いているのではない。

自分がずっと喋り続けられるように、話しながら息を吸うための器官へと進化を遂げたに違いない。

by 世界の人に聞いてみた

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