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ポストトゥルース以前につくられた先見的なコメディ『ラバー』

タイヤのロバートは、ある朝、突然目を覚まし、埋もれた砂から体を起こすと、転がる練習を始める。おぼつかない足取りでふらふらと転がりはじめるが、数メートル進むとバランスを崩してしまい、パタンと倒れてしまう。何度も倒れなが、寂寥とした荒野をただひたすら進んでいく。転がっているペットボトルを見つけると潰してみる。サソリを見つけると潰してみる。ビンを見つけるも、これはなかなか潰れない。悔しいロバートは怒りが湧いてくる。すると、ゴゴゴという騒音が響き渡り画面が歪む。その瞬間ビンが割れる。念力だ。やがてロバートは人を見つけると、次々に身につけた念力で、人の頭を木っ端微塵に粉砕していく。警察の捜査から逃れるため、モーテルへと逃げ込み、女のシャワーを覗く。ベッドでテレビも見る。そして、プールにも入る。おそらく映画史上初めてだろう。タイヤの殺人鬼を描いた映画はこれまで見たことがない。

カンタン・デュピューをざっと振り返る。

カンタン・デュピュー は、日本で言うならば、松本人志に近いかも知れない。74年生まれの49歳。フランス人。今のところ日本で見れるのは、4本しかない。どれも本編が70〜80分ぐらいしかなく短い。Netflixでドラマを観ているようなそんなかんじだ。直線的で平面的で、のっぺりとしている。一つの思いつきから話を広げ、出たとこ勝負の発想重視で映画をつくっているような、そんな作風が特徴的だ。しがない2人の男が、盗んだ車のトランクから巨大なハエを発見し調教するシュールでナンセンスな物語り『マンディブル2人の男と巨大なハエ』、老夫婦が見つけた新居の地下に隠された、降りると12時間進み、3日若返るという、不思議な穴を巡る『地下室のヘンな穴』、鹿革に魅力された殺人鬼の男を描いた、『ディアスキン鹿革の殺人鬼』などがある。フランスでは話題になっている監督らしいが、Wikipediaの日本語版はないようでこちらではまだ、あまり知られていないようだ。

劇中劇

この映画を語る上で重要な要素の一つは、本作が劇中劇になっているということだ。劇中劇と聞いて、『蒲田行進曲』を思い浮かべる人も多いだろう。この映画も同様に、「映画をつくっている映画」という構造になっている。現場を取り仕切るのは、眼鏡をかけたスーツ姿の痩せ型の男だ。男は、集まった十数名の俳優たちに双眼鏡を渡すとタイヤの見物人をやらせる。役者達は双眼鏡を覗き込み、見えもしないタイヤの行動に機敏に反応し、ああだこうだと感想を述べるのだが、その内の1人が、ビデオカメラで撮影をしていると、それを見た、他の役者から、「無断で撮影会すると、著作権の侵害になる」「捕まれば、禁錮だ」と注意を受けるのだ。面白いのは、見物人役の中に1人だけ椅子に座って物語を見届ける「見物人」が混じっているのだ。この男は見物人役ではなく、見物人なのだ。

マジックリアリズム

先程挙げた、劇中劇の構造以外ににもう一つ重要な要素が含まれている。それが、マジックリアリズムというものだ。マジックリアリズムとは、文学のジャンルのひとつで、簡単に言うと、物語と現実の境目が曖昧に描かれ、さらにはその二つが混同しているというものだ。映画では、ギレルモ・デル・トロの『パンズラビリンス』がわかりやすい例だ。「ファンタジーだと思ったら現実だった」というやつだ。ただ、この映画と違うのは、どこからが現実でどこからが物語り(ここでは劇中劇)なのかという明確な境目がない。ないどころか、それが混同して描かれているのだ。劇中その例はいくつも見られる。まず、わかりやすいのは,役であるはずの見物人が実際に殺されてしまう場面だ。現場を仕切る男が持ってきた、鳥の丸焼きを食べ、見物人の役者たちは、呆気なく死んでしまう。おそらく本来の予定では、この劇中劇は見物人が毒殺され、警察が撤収し、事件は未解決のまま終わるという筋書きだったのだろう。しかし、物語の見物人役の中に「本物の見物人」が1人混じっていたせいで、捜査を続けなければいけなくなってしまうのだ。もちろんこの「本物の見物人」も現実と物語が混同したマジックリアリズムの住民なのだ。男は見えないはずのシャワーシーンを見物しており、最後は殺人タイヤの餌食になってしまう。警官(スティーヴン・スピネラ)と他の4人の警官のシーンにも現実と物語りの混同が描かれている。「捜査は終了だ」と警官(スティーヴン・スピネラ)が指示するが、他の4人は状況を理解できない。警官(スティーヴン・スピネラ)が、「現実のフリをするのはよせ」というと、「これは現実ですよ」と返ってくる。なら銃を俺に向けて撃ってみろと警官(スティーヴン・スピネラ)は言うと、男の警官が、何発か銃を撃つがなんともないようで(しっかりと血が出ている)、これは、現実ではないと言う。困った女警官は、「清掃係の女は本当に死んでいますよ」というと、「なら、顔を叩いてみろ」と言う。頭のない死体に女警官は「冗談でしょ」と返す。

予定通りに行かない物語は『ラジオの時間』を彷彿させる

劇中劇、マジックリアリズム 、と続き、映画を構成する最後の要素が、「想定外」だ。想定外とは、その意味の通り、予定通りに行かないことだ。先程も少し触れたが、予定では、見物人役は毒殺され、警察は撤収。そして事件は未解決のまま終わる?という筋書きだったのではないかと予想できる。しかし、「実際の見物人」が混じっていたために、予定を変え、捜査を続けることになる。しきり役の男は、「実際の見物人」を毒殺すため、食べ物を用意するが、男はそれを拒否する。結局は、自分で食べ自ら命を落としてしまう。ここでもマジックリアリズム が使われている。物語と現実が混同するのだ。予定調和に行かない様子をコミカルに描いている点は、『ラジオの時間』を思わせる。これらの指摘した3つの要素を合わせると、この『ラバー』という映画は、すなわち、『蒲田行進曲』+マジックリアリズム +『ラジオの時間』と言い換えることができるかもしれない。

ポストトゥルースと現在

この映画の最大の謎は、なんといっても、冒頭のシーンにあるだろう。警官(スティーヴン・スピネラ)の1人語りだ。長い尺を使って、カメラ目線でこちらに饒舌に語りかける。「『E.T』の宇宙人は、なぜ茶色なのか、理由などない。」と始め、「『ある愛の詩』でなぜ2人が恋に落ちるのか理由はない。」「オリバーストーンの『JFK』で、なぜ見知らぬ人に殺されるのか理由はない。」「『悪魔の生贄』でなぜ人を殺した後洗面所で手を洗うシーンがないのか、理由はない。」「『戦場のピアニスト』で主人公はピアノの名手なのになぜ虐げられていたのかやっぱり理由はない。」といった具合に、全てを相対化していくのだ。ネットに書かれた、本作のレビューを見てみると、理由がないことをなんの疑いもなく受け入れてしまっているようで、これこそ、まさにカンタン・デュピュー が、危惧していたことをその通り、体現するものではないだろうか。実はこれ、注意深く見ていくと、そうとうおかしな事を言っているのだ。すべて映画についての話をしているのだが、5本のうち3つ(『ある愛の詩』、『JFK』、『戦場のピアニスト』)は、実話をもとにした映画なのだ。要するに、この男は、現実と物語の区別がつかずにペラペラとしゃべっているというこだ。ジョンFケネディが殺された理由はあるだろうし、2人が恋に落ちる理由は2人にしかわからない。それに、ピアノの名手の主人公が虐げられていた事実はあるはずだ。このように、客観的な事実を歪めすべてを相対化し、自分の信じたいことのみを信じるのが、ポストトゥルースだ。トランプ以降のアメリカがそれを物語っているだろう。アメリカだけではなく、世界でもそのような方向へと舵を切っていることは、言うまでもない。人々は自分の信じたい情報だけを信じ、SNSを使って、デマを撒き散らす。そこでは、現実も物語りも区別がつかなくなってしまっているのだ。本作『ラバー』に登場するタイヤのロバートは、まるで生きているように動く。無機物のタイヤであるにもかかわらず、まるで、犬や猫と同じように、可愛らしく見えてくるのだ。『マンディブル』に登場する巨大なハエもそうだが、カンタン・デュピュー は、キャラクターの描き方が上手い。今後、日本で人気が出るかは謎だ。未公開の作品もあるようなので、そちらも観てみたいものだ。

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