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投稿するのは何のため?

何のために投稿をするのでしょうか。
何のために書くのでしょうか。
ふとそれを記事にしてみたくなったのは、このところ、「投稿について書かれたみなさんの投稿」を目にすることが多くなったせいだと思います。

もちろん、なぜ投稿するのかを、必ずしも明文化する必要はないと思っていますが、記事にあるみなさんのお考えが、それぞれとてもおもしろくて──では、わたしはわたしなりの「何のため?」を、この機会に探ってみようと思いました。

先にいくつか、noterさんたちの記事をご紹介しますね。

まずは、ヤス(ウエダヤスシ)さんの記事。
「新たなアイデアを発見する毎日投稿」

どの記事を拝読しても、「書くことが好きでたまらない」というお氣持ちがひしひしと伝わってくるヤスさんは、こちらの記事の中でこんなことをおっしゃっています。

毎日投稿の醍醐味は、「書けなくなる」ことなんです。……え?って感じですけど、書けなくなっていいんです。え?
  (中略)
毎日投稿で今の自分を出し切ると、新しい自分と出会えるんです。だから「書けなくなってくる」頃から、おもしろくなるんだよ。

おもしろいですね。ヤスさんは、投稿を続けることで「書けなくなる」ことを全面的に推していらっしゃる。
それまで自分が蓄えてきたものは、どんどん投稿して出し切り、自分を空っぽにする。それでこそ、新たな投稿を生むための学びが生まれる……と。
「成長」とか「新陳代謝」という言葉が思い浮かび、わたしも読んでいて、ちょっと脱皮させられるような感覚になりました。


次にご紹介するのは、新垣さとる|やさしいひとふやすラボさんの記事。
「noteを90日連続投稿して感じたこと」

さとるさんには、投稿を通じて「やさしいひとをふやす」という大きな目的があるのはもちろんだと思うのですが、こちらの記事の中ではこんなこともおっしゃっています。

noteに私の人格を移植するつもりで取り組んできた。

これは、参加されたオンラインセミナーで、noterの末吉宏臣さんのお話に刺激を受けて、さとるさんが実践されたこと。
下の引用は、記事中で紹介されている末吉さんの言葉です。

「インターネット空間への移住が進んでいる。だからネット上の人格が重要になる」

末吉宏臣さんの言葉。さとるさんの記事から。

なるほど、と思わされました。
記事は、その人の考え方や思い──いってみれば、「その人そのもの」が反映されたもの。ですから、それを重ねるほどに、「人物」が描きだされていく。
これからの社会では、そのネット上の人物像・人格が重要になってくる。だから、投稿は、「単なる投稿」以上のもの。そんな思いが伝わってきました。

わたし自身の感覚としても、「noteを書いている」とか「読んでいる」とかいうよりは、「noteに住んでいる」というほうがしっくりきます。
本名ではない「くりすたるる」は、体を持つわたしとは別に、実在する人格だと思えます。
「移住」「移植」。
全く思いがけない、けれど納得のキーワードでした。

末吉宏臣さんの記事「オンライン空間への移住を進めよう」も、素敵な内容でしたので……下に貼らせていただきますね!


最後にもうおひとかた。
星の汀/ほしのみぎわさんのつぶやきをご紹介させてください。

短いつぶやきですので、全文ご紹介しますね。

ひとつの言葉を選ぶとき
《それ以外のすべての言葉を選ばなかった》ことは
意識していたいと思う

なんのために投稿するのか、という意図で書かれた記事ではありませんが、ご投稿に向きあうときの姿勢が示されたものだと感じましたので、引用させていただきました。
なにより、わたしがご紹介したくて。

このつぶやきに出会ったときの衝撃は忘れられません。
わたし自身、日頃から、自分の生みだした言葉すべてに感謝をしよう……という氣持ちを大切にしてきましたが、「選ばなかった言葉」を意識し、こんなふうにつぶやかれる方がいらっしゃるとは思ってもみませんでした。

このご投稿に出会って以来、わたしも「選ばなかった言葉」たちを大切に思うようになりました。それまでより、はるかに膨大な量の言葉を大切に思うことになりましたから……ひとまわり、自分が大きくなったかな!と感じています。
星の汀さん、あらためて、本当にありがとうございました。

大きな衝撃を受けたこのつぶやきを、単語に置き換えるのは難しく、また憚られるのですが、ご本人のコメントから拝借して、「責任感」という言葉をあてさせてください。
投稿することは、自分の書いたもの、選んだ言葉に「責任」を持つこと。


「成長」「新陳代謝」。
「移住」「移植」。
「責任感」。

あくまで、わたしの勝手な解釈を言葉にしたものですが……とにもかくにも、投稿に対する姿勢や思いは人それぞれだと感じます。
みんな違ってみんないい。

さて、ではわたし自身にとって、投稿とは何か。
自然に思い浮かんだのは、ふたつのこと。

ひとつは、「知る」ことです。
少し前の記事にも書いたことがあるのですが、noteを始めてから4か月の間に、文章の書き方がだいぶかわってまいりました。
noteを始めた当初は、「自分の考えを伝える」ことを念頭に置いて記事を書いていましたが、それが次第に「結論が全くみえないまま、記事を書き始める」という書き方にシフトしています。
結論が決まっていれば、そこを目指して文章を構成し、ある程度予定通りに書けるのですが、書き始めたはいいけれど結論がみえていない状態だと、自然に結論に導かれるのを待つしかなくて……いつ書きあがるかわからないのが、少々困ったところです。

それでも、いまはどうしても、既に結論の決まっていることを書く氣持ちにならないのです。
それよりは、書いているうちに答えに導かれていくのがおもしろいですし、書くことによって、いままで知らなかったこと、思いもよらなかったことが、どんどん自分にインプットされていく、そこに惹かれます。
一般に、書くことはアウトプットに括られますが、いまのわたしにとって、投稿はインプット。書くことで、自分に必要な情報が入ってくる。「知る」ことができる。
それが、わたしが投稿することの意味。

もうひとつの意味は、例えていうなら「シャワーを浴びること」となるでしょうか。
言葉のシャワーを浴びる。
わたしをきれいに洗い流す。

投稿を、インプットだと書きましたが、無理やり自分から言葉を引っ張りだそうとせず、「待って」いると、言葉は外から降ってきます。
まさにシャワーのように、わたしの体に降りそそぎます。
それで体を洗い流す。きれいにする。
言葉の水は、もちろんわたしの内側にもしみ込んできますので、内側も洗い流す。きれいにする。

その「シャワー」を、いつもできるだけ明示的に、映像的に、感じるようにしています。
そうすると、文章を書けば書くほど、体が楽になっていきます。きれいになっていきます。
うっかり「映像化」を忘れて、ただ言葉を絞りだすように書いてしまうと、消耗します。おもしろいですね。

文章は、流れです。
音の流れ。文字の流れ。心の流れ。思考の流れ。
別にわたしのように、外から降りそそぐ言葉を待つ、という書き方をしなくても、アウトプットそのものが、言葉の流れ。
自分の思考から、心から、溢れて流れる一筋の川のようなもの。
その流れを映像化してみるだけで、案外体が軽くなります。
とても簡単なことなので、よかったら、ご紹介した4人の方々の記事と同様、参考にしてみてください。

今日もたくさん流れていますね!みなさんの言葉が。noteという大河に。
それを読ませていただくことも、わたしにとっては沐浴であり、「シャワーを浴びる」こと。
やさしい流れの音を胸に響かせたり、力強い流れに打たれたり、ときには苦しい言葉の吐露も、流れることで浄化される……それを目に映したり。
わたしの体の内外に、たくさんのものが流れます。
それが本当に愛おしい。
あ……!

わたしが投稿するもうひとつの意味。大切な大切な意味がありました!
もし投稿をしなければ──。

わたしはみなさんに出会えていなかった!
つながっていなかった!

もうそれだけで、投稿してよかった~~~!と思えます。
あの人にも、あの人にも、あの人にも、あの人にも……!
投稿したから会えた。会えてよかった!
それって、もう何物にもかえがたい「投稿の価値」ですね!

あれ?
なんだか体が、すごーく軽くなってきました……。




こちらの記事に、数週にわたり、計5つのコングラボードが届きました。スキをくださったみなさま、記事にご協力くださったみなさま、本当にありがとうございました!↓↓↓

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