わたしは音のおかあさん!
子どもの頃、ピアノを習っていました。
結構熱心に関わっていた時期も長くて、ピアノにまつわる思い出や、音楽から教えてもらったことがたくさんあります。
そういう思い出のなかで、ふと、鮮やかによみがえってきた記憶があります。
ピアノに向かって、ぽろ、ぽろ、ぽろん……と練習曲を弾きながら、
(わたしは音のおかあさん!)
そんなふうに思っていたわたしがいたこと。
わたしは音を生みだしている。
生みだすのだから、わたしは音のおかあさん。
わたしの生みだすすべての音が、幸せになりますように……!
どういうきっかけで、いつ頃からそんなふうに感じていたのかは思いだせないのですが、上手、下手という基準より、いい音──幸せな音を生みだす、ということが、わたしにとって大切であったのを覚えています。
手前味噌になりますが、合唱コンクールの伴奏をさせてもらったときに、友人のおかあさんから、「るるさんのピアノの音、とってもきれいだった!」とわざわざ声をかけてもらったりしたことを、懐かしく思いだします。
そこから、紆余曲折あって現在に至りますが、ふと氣がつけば、
(わたしは音のおかあさん!)
そう思っていた子どもの頃の自分に、近いわたしがいます。
ピアノに関しては、いまはごくたまに音を鳴らす程度ですが、ピアノであっても、こうしてパソコンに向かって書くちょっとした文章であっても、
(わたしは音のおかあさん!)
確かにそんな思いで書いています。
一言一言、一音一音、生みだす音には幸せになってほしい。
人にきかせる演奏をするために、なんどもなんどもピアノを練習するように、誰かにみせる文章に仕上げるまでには、もちろん、なんどもなんども書き直します。
でも、練習のために生みだした音も、下書きのために書いた文章も、愛しいことにかわりはなく。
生まれてきてくれてありがとう。
そんな氣持ちで書いています。
社会人になってすぐに、わたしは児童書の編集の仕事を始めました。10年程勤めて退職し、そのあと、自分でお話を書く仕事もしてきました。
商業出版ですから、もちろん、文章は「上手」であることが求められます。
編集者時代、わたしも人にそれを求めてきましたし、物書きとしては、人に求めたり求められたりする以上に、「上手くなりたい。もっともっと上手くなりたい」と、自分自身がなによりそれを欲していました。
お話を書いては、(これじゃだめ。もっと)。また書いては、(もっと、もっと)。
書いては読み直し、書き直し、読み直し、また書き直し……頭の中が文字通り、「文字でパンクをしそうになる」ほど書いたこともありました。
もちろん、その時間はたからものですし、いまのわたしをつくってくれている大切な要素です。
けれど、最近、たくさんの方の書いたものをnoteで読ませてもらうようになって、ピアノの音を大切に弾いていた、あの頃の氣持ちがまざまざとよみがえってくるのです。
もちろん、「上手い」文章は好きです。しかもそこに、その方の生き様なんかが映し出された文章に出会うと、それだけで顔がぱあっと輝いてしまうほどに嬉しくなります。
でも同時に、いまははっきり感じます。
「上手い」ことに、ちっともこだわってはいない、自分を。
noteに投稿しようとパソコンに向かい、原稿を書き始めるとき、これを書くつもり、という題材はあります。結論も、おおよそイメージしています。それが伝わるのはどんな文章か、読者の氣持ちになって想像してみます。伝わったらいいな、と心から願います。なんどもなんども書き直します。
でも、「上手く」書こうと考えるのはやめました。
少し、子育てにも似ていますね。
わたしは、わたしの書く文章のおかあさん。
そうして、ふと振り返ります。
過去に、作家として上梓した本たち。
わたしは、わたしの書いたものを、ちゃんと愛してきたか。
向上心という名のもとに、「もっと、もっと」と要求ばかり、してはいなかったか。
もっともっと上手に書きたい。もっともっと売れてほしい。
生まれてくれてありがとう、と伝える前に、そんなことばかり、追い求めてはいなかったか。
上手に書くのも、売れるのも、もちろん素晴らしいことです。
でも、ただ「生みだされる」というシンプルな幸せにかなうものはない。
きっと、どんなものでも同じですね。
「生まれてくれてありがとう」
それさえあれば、この世界は天国です。
追記
こちらの記事に、数週週にわたって、計6つのコングラボードが届きました。スキをくださったみなさま、本当にありがとうございました!↓↓↓