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「今年の漢字」と「#手」にまつわる記事の募集。

年の瀬。「今年の漢字」に関するみなさんの記事をおみかけすることも多くなりました。
読ませていただくと、ああ、なるほどなあ、この方らしいなあ!と、つい口元が緩むような漢字がしっかりと選ばれていて……では、わたしにとっての「今年の漢字」はなにかしら、と考えてみたくなりました。

ひとつの漢字が、ほどなく脳裏に浮かんできました。
わたしの「今年の漢字」は──「手」。

手。

今年、わたしは「てがみさま」とともにあったなあ……という思いが強いからかもしれません。

「てがみさま」について書いたのは、こちらの記事です。

冒頭を少し引用しますね。

「てがみさま」というお話を書いたことがあります。
手紙の神様。てがみさま。
大切に書いた手紙には神様が宿ることを──短いお話にしました。
封筒を開け、折りたたまれた便箋をひらくと、おかっぱ髪の女の子の神様が、ちょこんとそこに現れる。それが、てがみさま。

もともとは、わたし自身がずいぶん前に書いたお話にでてくる「手紙の神様」でした。
手紙にしたためた氣持ちを、相手の心へ運んでくれる、やさしい神様。
それがこの記事を書くことで、ああ、「手紙さま」は、手の神様──「手神さま」でもあったのだ、と、すとんと腑に落ちました。
以下、本文からの引用です。

てがみさまは「手神さま」。
手先、指先からあふれる神様。
いまはそんな位置づけがふさわしいような氣がしています。

「書く」という行為は、以前は、鉛筆やペンで紙の上に記すことがほとんどでしたが、いまは、キーボードに向かって自分の思いや情報を打ち込むことが主流です。あるいはスマホなら、指の操作だけで書き込んでいく。

不思議なのは、紙でもパソコンでもスマホでも、「書く」ときには「手」を通して、わたしたちの体から外へ、情報が流れでるということです。
「手から言葉を放つ」行為、それを「書く」と呼ぶのかも……そんなふうにも感じています。

言語化したとたん、それまでなんとなく感じていたものが、はっきりしたエネルギーとなって、両手にしっかり宿るのがわかりました。
何を書くにも、どんな内容をパソコンに打ち込むにも、そこに手神さまがいる。それが自分のお守りにもなりました。

そうして、「手」がより身近に、より大切に思えるようになった。
わたしにとって、今年はそんな年でした。

手を使うことは、霊長類特有の行動であり能力です。
重力から解放されることでわたしたちが得た自由。それが「手」であると捉えることもできるかもしれません。

「前脚」であるうちは、体を支える役目を果たさなければならなかった。
そこから自由になった「手」で、ではわたしたちはいったい何をするのか──ということを、誰もが自分で選べるのです。

書く。
描く。
掘る。
洗う。
飾る。
たたむ。
持ちあげる。
指し示す。
片づける。
さする。
絞る。
めくる。

普段、ほとんど意識することなく、わたしたちは様々なことを、両手を使ってこなしています。手に何ができるかを挙げだしたら、おそらくキリがないほどに。

そんな、「手の持つ可能性」について、あらためて思いを巡らせていたら、大好きなnoterゆらゆらミルコさんのご投稿を思いだしました。

欠乏と余剰

そのさみしさは
だれかとつながれる手

あふれでるやさしさも
だれかとつながれる手

さみしさもやさしさも
おなじくらいいいもんだ

読んだとき、世界中のあちこちで「つながれる手」が、淡く輝くように目に浮かんできて……胸がいっぱいになりました。

詩の解釈については、読んだみなさんそれぞれの胸に湧きあがるものを大切にしていただけたらと思いますが、手をつなぐことで心もつながれる──その不思議な感覚に思いを馳せたくなりました。

わたしたちは、自分の意思で手を伸ばし、誰かとその手をつなぐことができます。
そして、つながれた手を通して、心をつなぐこともできるのだと──なぜだかちゃんと知っているのです。

抱く、さする、などの言葉にも、それに近い力があると感じます。

両手で抱きしめたり、相手の肩を抱いたりすることで、相手の心をも、しっかりその手に抱くことができますし、誰かにやさしく背中をさすられれば、その手に癒されていく自分の心を感じることができます。

わたしたちが「手」を持ったことには、たんに物理的動作を獲得したこと以上の意味がある──考えれば考えるほど、そんな氣がしてくるのです。

冒頭の記事を半年前に投稿したとき、手神さまの存在を、みなさんが予想以上に受け入れ、共感してくださったことも、わたしには大切な記憶です。
目にはみえないけれど、「手に大きなエネルギーが宿っている」ということを、たぶん、多くの人が感じながら生きている。

さて。
みなさんにお願いがあります。
記事の募集……とタイトルにも明示させていただきましたが、「手」について、みなさんがお感じになることを、よかったら記事にしてご投稿いただけないでしょうか。
手のエネルギー、手の力、などという言葉を使いましたが、それに拘っていただく必要はなく、みなさんが「手」からイメージできるもの、どんなものでもかまいません。
手芸、お料理、整体、お子さんとのふれあい、素敵な思い出など──それぞれに、手から連想する出来事や日々の習慣があるのではと思います。
書いたものに、ハッシュタグ「#手」をつけ、当記事を貼付してくだされば、数日中にご訪問し、マガジンにまとめさせていただきます。その後、ゆっくりにはなってしまうと思いますが、ご紹介記事も書けたらと思います。

お願いをする理由はシンプルで、わたしが読ませていただきたいから。みなさんが、手についてどんなことを思われるのか……を、ぜひ読んでみたいのです。
募集期間は、ひとまず節分まで(来年は2月2日ですね)といたしますが、わたしが読みたいというのが募集の理由なので、そのあたりは緩めに……と思っています。

この数日、実は近場の温泉へ小旅行をしておりました。
旅行のときには、たまたまそばを通りかかった神社にお参りをするのが習慣なのですが、今回立ち寄った神社に、手力男命たぢからおのみことさまが祀られていました。
「手の力」について思いを巡らせながらの旅でしたので、「手力男命」というそのお名前が、不思議な光を纏って心に届く氣がいたしました。

手力男命は、ご存知、古事記や日本書紀で、天岩戸を開き、天照大御神の輝きを世界に取り戻したといわれる神様でもあります。
その手力男命さまを祀る神社に手をあわせながら、ふと、「開く」という行為に思いが及びました。
天岩戸を開く。これも、手がなくてはできなかった仕事──。

もしかして、手を使って「開く」ことは、わたしたちが自覚する以上の大切な働きなのかもしれない。
たまらなく、そんな氣がしてまいりました。

開く。
開く。
開く。

わたしは、これから何を開いていくのだろう。

ひとまずは新しい年を。
開く。
それから──自分の心の扉を開いてみようかな。

できるだけ「開いて」生きているつもりではいるのです。でも、たぶん、まだまだたくさん、わたしには開けるものがある。
だから、氣がつくごとに、開く。開く。開いていく。

胸に湧きあがったそんな思いとともに、今年最後の投稿ボタンを押したいと思います。
手神さまのお力を、指先に添えて。

今年というよい年が過ぎゆき、また新しい年が、美しく開かれていきますように。
みなさま、どうぞよいお年をお迎えください。





三羽烏さんの、こちらの企画に参加させていただきます。
noteで出会ったみなさんに、愛と感謝の氣持ちを届けられたらと、日頃から切に願っておりました。
企画に参加することで、どうぞその思いを伝えさせてください。
三羽さん、ありがとうございます。

マウスにのせた指先から、みなさんへ──わたしの氣持ちが運ばれていきますように!(手神さま、よろしくお願いいたします)

ぽちっ。




こちらの記事に、数週にわたり、四つのコングラボードが届きました。記事にご協力くださったみなさま、スキをくださったみなさま、本当にありがとうございました!

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