能「鉢木」が伝えたいこと(1)

「いざ鎌倉」の主人公、常世の家があった「常世神社」に行く
去年の3月下旬、住まいがある湘南から群馬に向かった。
高崎駅で上信電鉄に乗り換え、2つ隣の「佐野のわたし駅」で降りた。冷たい空気が迫ってきた。湘南は桜の開花を待つ陽気なのに、ここはまだ冬の冷気が残っていた。駅前には川幅が広い烏川が流れ、その向こうには丘陵が続いている。風が雪を伴って吹き下す真冬を想像した。
駅から5分ほど歩くと常世神社に到着した。想像よりずっと小さかった。鳥居をくぐり、細長い境内を歩くと、奥に小さな本殿がある。ここは、かつて佐野源左衛門常世という武将の住居があった。「いざ鎌倉」の武将だ。
能楽「鉢木」のストーリーのおさらい
常世の話は「鉢木」という能にもなっている。
深雪で歩くのも大変なある冬のことだった。旅の修行僧が常世の家を訪れ、一晩の宿を求めた。
常世は貧しく、家も荒れ果てていたため、いったんは断った。しかし妻が促すので僧を招き入れた。粟の粥を出すのが精いっぱいで、夜が更けると寒さが一段と厳しくなった。すると常世は、大切にしていた盆栽を切り、薪として燃やして僧に暖を与えた。
常世は、かつてはこの辺りの領主だった。一族に騙されて領地を横領され、零落したのだった。旅の僧はこれを聞いて驚いた。しかし常世は、たとえ落ちぶれても武士の誇りは忘れていなく、鎌倉に対する忠誠心はいささかも衰えていないとして、もし鎌倉に一大事が発生すれば、破れて粗末な鎧だがそれを身に付け、錆びてはいるが長刀を持ち、すっかり瘦せている馬に鞭打って鎌倉に駆け参じると意気揚々と語った。
先頭に立って敵陣に突っ込み、見事討ち死すれば武士としては本望だった。もっとも我慢ならないのは、このまま飢えと貧しさに疲れて死ぬことだった。常世の本音だった。
この時、常世は想像もしていなかった。彼が語っている旅の僧は、鎌倉幕府5代執権北条時頼(最明寺殿)であった。時頼は「鎌倉に来ることがあればお尋ねください」と言い残して常世の家を後にした。
しばらく後、常世は全く想像しない形で時頼と再会した。時頼が関東中の武士を招集したのである。諸国の武将は、きらびやかな鎧を着て、立派な馬に乗ってきた。その中に、粗末な鎧を身にまとい、錆びついた長刀を背負い、痩せた馬に乗って駆けてきた常世がいた。
時頼は常世を呼びだした。しかし常世は、自分がなぜ呼ばれたか理解できなかった。人に裏切られて零落した生活が続いたことで卑屈になっていたのだろうか。「さては誰かが私を指して謀反人と告げ口したに違いない」と疑った。それでも武士らしく、「引きずり出されて首を刎ねられるのならそれもやむを得ない」と覚悟を決めて時頼の前に出た。
常世を見た時頼は、「私はいつぞやの大雪の日に宿を借りた修行僧だ」と告げた。そして、関東中の武士を招集したのは「鎌倉に一大事があれば真っ先に駆け付ける」といった常世の言葉を確かめるためだと白状した。
驚く常世を褒めたたえた時頼は、奪われた佐野の領地を取り返す約束をした。それだけではない。常世が時頼のために切って燃やした鉢の木が梅・桜・松であったことから、加賀梅田庄、越中桜井庄、そして上野松井田庄の土地を新たに与え、子孫に至るまで保障する本領安堵状を与えたのであった。
「鉢の木」はただのサクセスストーリーではない
以上が「鉢木」のあらすじである。この物語は、「いざ鎌倉」という言葉と共によく知られている。落ちぶれても鎌倉への忠誠心を保ち続けた誇り高い武士の姿として、さらには、大切な鉢の木を切って暖を与えた「おもてなし」に感じ入った時頼によって常世が再び世に出た爽快なサクセスストーリーとして語られてきた。
しかし、この読み方は、「鉢木」に埋め込まれた大切なメッセージを見逃していないだろうか。それは、かつての日本人が理想としていた人生観である。当然過ぎるのでわざわざ取り上げる必要がないのか、あるいは、かつての日本人の人生観などすっかり忘れ去られてしまったからであろうか。しかし、それではあまりにも惜しい。