能「鉢木」が伝えたいこと(3)
もし旅の僧が時頼でなければ・・
もし、常世の家を訪ねたのが時頼でなければ…
冬の高崎の厳しい寒さの中、かつての領があばら家で、身の不幸を嘆きつつ生涯を送ったであろう。しかし、それも前世の報いと受け止め、布施の心を保ちつつ、後生を思って生きていったのだろう。
かつての日本人には、このような生き方があった。
常世の時代と比べると、現在ははるかに長寿である。医学は進歩し、社会ははるかに平和だ。
しかし、私たちの方が、人生をはるかに短く捉えていると思う。なぜなら、人生とは、生まれてから死ぬまでの生物学的な時間を指しているからである。
常世は違った。この世に肉体を授かる前には前世があった。そして、肉体が滅びた後には後世があった。
「昔の人は迷信深い」「生まれる前にお前はいない」「死んだあとにもお前はいないじゃないか」という反応が聞こえてきそうだ。まったくこの反応は正しく、昔の人は非科学的であることは間違いない。
しかし、科学的に正しい私たちの人生は非常に窮屈である。人生の問題や生きる意味への答えなど、すべてを「生きている」時間内で解決しなければならないからである。欲しいものは死ぬまでに獲得しなければいけない。だから得られない苦しみが生じる。得ても失う恐れが生じる。「勝ち組」「負け組」が生じる。だから他人を羨んだり憎んだりする。仏教でいうところの「心の三毒」貪瞋痴(とんじんち)がこうして生じる。
常世が持つ真の豊かな心を感じたい
常世はどうだったか。土地を奪われ、身分も名誉も奪われ、不遇の境遇を嘆く毎日を過ごした。それでも、旅の僧には親切に接した。自分の宝物である鉢の木を切り刻んでもてなす心を持っていた。打算もないし見返りも求めず、与えることを喜んだ。この心は、後世を信じていなければできない。
現世しか見ない私たちは常世の行動はとれない。旅の僧侶が訪ねてきても宝物の「鉢の木」は切り刻めない。「お前より俺の方が苦しんでいるのだ」と追い出すかもしれない。
「鉢木」の真の魅力は、落ちぶれても抱き続ける鎌倉への忠誠心でなければ、常世の「おもてなし」に感動した時頼がもたらすサクセスストーリーでもない。人に騙され、不遇の生活を余儀なくされ、飢えに苦しんでいても、心の平安を保ち、他人に自分の宝物を捧げる心の豊饒さである。
そこには全く損得勘定がない。釈迦と同じ行動を取れること心が満たされた。合理的な生き方ではない。しかし、これほど豊かな生き方はない。ここに信仰の意味がある。
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