先祖が明治時代に何をしていたのか、どのように北海道に来たのか、調べる
はじめに 先祖からの言い伝え
私の先祖は、昭和初期に北海道にやってきた。
言い伝えでは、福島県の南相馬から有力者を頼って北海道に移住したのだという。
その有力者は自治体史にも登場する村議会議員などを歴任した人物で、その人のお世話になって最終的に独立したことが伝えられている。また武士であり、家に刀があった! いやそんなものは見てない! みたいな話も伝わる。
口伝で伝わるのみで、本当にそうなのか? あるいはなぜその人物を頼ることができたのか? 本当に武士なのか? など冷静に考えると謎の部分が多い。
今回は最新の技術でそれがわかった話をしてみよう。
1 祖父母の死
昨年相次いで祖父母が亡くなった。大往生でどちらも90代での死去だった。悲しみがありながらも、長生きした人のお葬式に特有の安堵というか余裕のある葬式だった。
当然先祖の話になる。私も子供の頃から聞いてきた北海道の移住の話になる。ところが話は断片的であり、また先述の通り裏付けもとれない。
ところが話を聞いているうちに、「あれ、これ調べられるかもしれないぞ」という気になってきた。
2 国立国会図書館デジタルコレクション
ひとまず、遡りうる全ての戸籍を取り寄せていた伯父からコピーをもらう。そして、一番古い時代の戸主の名前を「国立国会図書館デジタルコレクション」で検索してみる。
国立国会図書館デジタルコレクションは、もともと著作権の保護期間の切れた書籍をデジタル化してアップしているウェブサイトだった。田舎に住んでても昔の本を全文読めるわけだが、当然書籍名をバッチリ覚えていたり、あるいはそれっぽい単語で検索かけてヒットすることに賭ける必要があった。
ここから国立国会図書館デジタルコレクションはさらなる、そしてとんでもない進化を遂げることになる。2022年から最新のAI技術などに後押しされ、著作権切れ書物の全文検索が可能になったのだ。
書名や出版社から探すだけでなく、本の中の文字列を探せるようになったということだ。探し出せる情報量がとんでもなく増えたことになる。
私の戸籍で探せる一番上の先祖をこれで調べてみようというわけだ。
3 先祖を調べる
先祖の名前を調べてみる。
一件だけ、次の書物がヒットした。
大正7(1918)年に出版された書物で全文が検索できる。当時の各地域の実業家や政治家が一覧になっているもので、生年月日や一族の姻戚状況などが詳しく載っている。個人情報保護の観点はまだない時代だ。むしろこうした書籍が社会の人的ネットワークの構築に働いていた。
私の先祖はここに立項はされていなかった。
ところが、福島県のある人物が立項されており、その親戚を紹介するなかに先祖の名前があって検索に引っかかった。
同姓同名の可能性もないわけではないが、口伝と齟齬を来す部分はなくこの人物は先祖である可能性は高いだろう。
整理すると以下のことがわかった。
私の先祖は、おそらく先に移住し成功していた同郷人でかつて同じく武士だった縁戚の存在を頼ったのであろう。そうして北海道の入植地が決まったのだ。
4 先祖の武士としての階層
結構なことが国立国会図書館デジタルコレクションで分かったわけだが、一族みんなが以前から気になっていたことがある。それは「なんで武士の家だと言われているのに思いっきり農民やってるんだ?」ということ。
居住地がわかったのでなんとなく武士としての階層もわかる。大まかに武士はお殿様のいるお城でお仕えする武士と、地域で半分農民をやりながら地域で職務を果たす武士とがいる。後者はいろいろ定義や存在形態があるが、郷士とも呼ばれる。おそらく私の先祖は後者だったのだろう。ギリギリ武士、といった階層だ。
福島県北部は江戸時代は相馬中村藩が統治した。相馬中村藩の郷士は在郷給人と呼ばれるのだそうだ。在郷給人の一覧みたいな本がある。それをみると現在の鹿島区界隈にいた在郷給人には、私の先祖の名字や、先に出てきた親戚の名字がある。直接先祖の名前は出て来なかったのだけれども、おそらく階層としてはここだろう。
もともと半農の武士だったのだ。だから北海道での開拓・農業という仕事上の発想があったのだろう。
おわりに 私たちは「想像しなかった未来」への「準備」をしている
デジタル化の恩恵を受けに受けて、今まで口伝えだった自分の先祖の北海道移住をめぐる状況や、それ以前の江戸時代の階層や暮らしについてもおぼろげながらだが明らかにすることが叶った。
今回のブログは「想像していなかった未来」というテーマで書いたものだ。デジタル化の発展により、想像できなかった過去の先祖の様子がわかるようになった未来を、私たちは生きている。
大切なことは、技術だけあってもいけないということだ。今回のケースでは『人事興信録』という本をしっかり図書館で保管していたこと。著作権の保護期間を設けつつも満了期間も設定し、一定期間後は書籍を広く社会にオープンにする仕組み作りをしていたこと。これらの昔からのルール作りがあってこそ、デジタル化の恩恵を受けられる状況が出現した。
「想像していなかった未来」を構築するためには「その準備」が必要だ。もちろん未来は想像しえないのだから、未来に対し直接効果のある準備というものは存在しない。ただ、その時その時、あるいはその分野その分野で今必要とされていることを黙々とこなし、日々積み上げていく。
そうした「準備」に、突如として光があたることになる。あるいはそうした「準備」に、突如として風が吹くことになる。
未来は全然わからないんだけれども、黙々と自分の何かを積み上げていく。仕事や家事の何かを積み上げていく。趣味でもいいだろう。それが私たちにできることだ。
「想像していなかった未来」の半分くらいは、おそらく今私たちの黙々とこなす日々のなかに、種として宿っている。