存在しない概念は言語化されない

熊本の方言で
「しゃんもんでん」というフレーズがある。
あえて標準語に直すなら
「何がなんでも」というような
意味になるだろうか。

熊本ネイティブの人の間では、
わりとよく使われている言葉だが、
僕は初めて聞いた時、
何て言っているのかも、
どういう意味なのかもわからなかった。

そもそも「しゃんもんでん〇〇する」
という概念自体が一般的ではないので、
そういう言葉を使う機会も、
そういう行動をすることもあまりないのだ。

熊本に4年くらい暮らしていて、
そのことを実体験として、
何度か経験して初めて実感したのだが、
熊本には「肥後もっこす」という概念があり、
その「肥後もっこす」が
もっこす独自の価値観で
自分の信念を曲げられない時に
「しゃんもんでん〇〇する」のだ。

例えば僕がある家にお弁当の配達に行って、
そこの家の駐車場に置いてあった、
植木鉢に車をコツンとぶつけてしまい、
植木鉢を割ってしまったことがある。

僕はすぐにそこの家のおばあちゃんに
植木鉢を割ってしまったと報告したのだが、
そこのおばあちゃんは
「ああ、そんなのはよかよ」と、
あっさりと許してくれた。

ところが数日後に配達に行くと、
そのおばあちゃんが
ジュースを買って用意してくれていて、
「ごめんね、うちの嫁がもっこすじゃけん」
と言って謝るのだ。

僕が植木鉢を割った時には
東京に旅行に行っていたお嫁さんが
今日帰って来て、
割れた植木鉢を見つけ
「しゃんもんでんヒライさんに電話した」
のだそうだ。

配達を終えて事務所に戻ると
「紀川さん〇〇さんの家の植木鉢を割った?」
と事務の人から聞かれた。
僕は別に内緒にしていたわけではなく、
おばあちゃんがあんまりあっさり許してくれたので、
そのこと自体をすっかり忘れていたのだ。

後日そこの家のお嫁さんに
植木鉢の代金を弁償した。
とまあ、そこの家のおばあちゃんが、
「気にせんでいいよ」と
あっさりと許してくれたのを翻して、
おばあちゃんの顔を潰してまで、
抗議の電話をいれるのが
「しゃんもんでん」の精神であり、
その根底には「もっこす魂」という、
熊本特有の価値観が存在している。

福岡での暮らしが長かった僕には、
そもそも「しゃんもんでん」の心がないので、
熊本の人の気持ちは完全にはわからないのだ。

この熊本の人独特の価値観は、実は今でも日常生活のさりげない場面に時々現れてきて、僕の心を傷つけている。傷といってもそんなに深い傷ではなく、ほんのかすり傷のような傷なのだが、熊本生まれ熊本育ちの人は全く無自覚に、悪気なく僕を不愉快にさせる。全く言語も違い、肌の色なども違っていれば、一目瞭然で他の民族と気付き、最初からそういう前提で接すれば、そんな違和感やストレスを感じることもないのだろうが、逆に言えば、僕のような異界の存在が熊本という特殊地域にとってストレスとなっているとも言えるのだろう。

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