台灣の原住民ーある村のタイヤル族
原住民の話がビューされているので
本当に読まれているかは不明だが
(反社について読みたい人かな?)
過去、タイヤル族について書いた文章を
こちらに掲載しておくことにする
()は現在の感想や追記
【ちなみに、単身乗り込むことは、
お勧めしません。過去、外国人が
村長に挨拶も無しに勝手にテントを張って、
村民から乱暴を受けた事件がありました。
必ず原住民委員会や知人、住民など
知り合いを作ってその人と行動を共に
することを推奨します。
観光地化されている場所なら大丈夫でしょう】
2005-12-11
原住民の過去とこれから。
山から下ろされ、強制定住させられた
タイヤルがこれからたどる道。
日本統治時代を経験した人は
高齢になっています。
(今はマジで少ない)
(2024年シャーマンを探してほしいと頼んだが、
過去いたが(女性)継ぐ者がいないため現在は宜蘭県一帯を探してもいないとのこと)
かつて「鯨面」とよばれるほど
盛んに顔面に刺青を施したタイヤルですが
日本統治時代台湾総督府警務局理蕃課より
イレズミ禁止政策を受けたため、
いま顔面に刺青を入れているひとは
見当たりませんでした。
(実は2007年ごろに会ったが
その老婆はセデック族だった
そして認知症だったので、
『お父さんは山に行って薪を取ってきたよ』
などと同じ内容を繰り返し話していた
(録音してじーちゃんに訳してもらった
この人はセデックだよと言ってた)
(そして非常に残念なことに、
認知症であるとともに
顔面にイレズミがあるため、
家族が彼女を隠すように生活していた、
差別を受けることを恐れていたのだ)
セデックは非常にタイヤルと
言語、風俗習慣が似ているので
鳥居龍蔵氏も厳密には分けて考えていなかった)
そして若者は
「有紋面的人不好看」
(顔にイレズミのある人は美しくない)
と言っていました。
腕にイレズミをする人はいましたが
図柄は伝統的な以前のものとは異なります。
女性の必須技術とされる機織は、
民族主義の高揚により
85年から烏来(ウーライ、地名)で
見直されるが、
すぐにその目的は
「伝統文化の継承」から「商品化」へと変わる。(順益台湾原住民博物館「揺擺布錠―烏来原住民族紡織文化展―」)
そうか、
「伝統織物を観光資源として
商品化して現金収入を得るのか」とおもい、
烏来(烏来は温泉もあり台北から程近い山中である。)に行ったが九份でみたような出店ばかり。
どの店も同じものを同じ値段でだしている。
あれ?どこにタイヤルのものがある??
どのみせがタイヤルが経営している??
どの店で聞いても「我不是泰雅族」。
(『私はタイヤル族じゃないよ』)
タイヤル族博物館においても
案内役は漢人だった。
(皮肉にも今まで見たどの博物館よりも
内容が充実していてわかりやすかったし、
衝撃的な漢人批判も見受けられた。)
観光資源を残し、
タイヤルはどこへ消えたのだろう。
漢人の入植により漢化が進み、
純血のタイヤルは姿を消したということか?
それとも観光資源のみが奪われ
烏来のタイヤルは
どこかへ行かざるを得なくなった?
烏来の観光資源に食いついた漢人から
金を得て大都市へ引っ越した?
タイヤルでない人が行うタイヤル観光、
こんなのしたい?
ともかくも烏来は奇妙な観光地だった。
タイヤルは原住民であるために
高い教育を受ける機会が漢人と平等ではない。
(基本的に台湾中部東部の山中に居住)
そのため就職など(資本主義の)生活において
大変不利になる。
(現在は過去の差別・土地奪取への補償のため原住民恩給が少額ながら支給されてる)
台湾の目を見張る経済発展のうらには、
MRT開通や超高層ビル建設に命をかけて
(文字通り命を懸けて)
従事した原住民の姿がある。
現在も村に住むタイヤルは
危険をともなう肉体労働の最中に死亡したり、
母親は出稼ぎで、
家族一緒に住めない家庭もある。
村では身障者も知的障害者も働かない人間も
ともに暮らしている。
規格外の人間を無視する管理方法は
ここにはない。
村では誰がどこに何をしにいったか、
人に聞けばたいがいわかる。
村民が自然とお互いに気を配っている。
少人数単位で部落ごとに棲み分けている
タイヤルの時代から、
この村にはホームレスなどいない。
存在しようがないのだ。
(お世話になった台日ハイブリッド先輩の
じーちゃんはその事を誇らしげに語った)
タイヤルといえば「出草」(首狩り)
「霧社事件」ばかりが大きく取り扱われる。
タイヤルは祖先の伝統を守ることを
最も重要視してきた点で他の原住民とも異なる。南洋のビッグマン制に似た
(同じかどうかよくわからない、
「頭目」(リーダー)には絶対的な権限はない)
「頭目制」はその社会の秩序を保つための
高度な自治方法だ。
「出草」は清朝が介入してきた時代から
盛んになったことが確認されているし
(自村落を守るため)、
「霧社事件」はその原因を考えれば
おのずと非はどちらにあったのかわかるだろう。
(ビビアン・スーも出資、出演した映画『セデック・バレ』は霧社(部落名)事件をかなり史実に忠実に表している。後から聞いた話だが、主役モーナルダオの青年時代を演じた大慶ダーチンはこの村出身だった。一緒にカラオケした女性の弟)
漢化、といえば南澳郷の中心部、
南澳村はすでに半分ほど
漢化が進んでいるという。
(現在はもっと進んでいるだろう、
そして少子化でもあるという)
このまま漢化が進めば
純粋タイヤルという子どもはいなくなるだろう。
南澳村は鉄道が走り、
駅前には巨大な観音像にコンビニ、
ドリンクバーに銀行、郵便局、小中高校等々。
やっぱ漢人の住んでるところって
なんでも揃ってるんですね!と言いたくなる。
それがいいものかどうかは別として。。。
(私が訪れた村はカトリックが多かったので
観音像があるということは漢化の一部だろう)
(私の訪れた)村では生活に必要なものは
店で売っている。
食糧は裏庭で鶏やアヒルを飼っている家もあり、
他に小型トラックで刺身から野菜、果物、
雑貨まで売りに来る。
(毎朝そのスピーカーの音で目覚めるほどに
うるさい)
しかし、値段が高い。
台北に比べると村では運賃がかかるので
物の値段が高い。
現金収入はその反比例でとても低い。
そしてまた
この村の言語はとても興味深い。
(実はこれには理由があって、
日本人が入植した際、
セデックの住む下にある村と(高低差)
タイヤルの住む上にある村を
ひとつの部落として扱ったので、
上村と下村で意思疎通が
(多少は分かるとはいえ)
困難なため、
両者とも理解できる日本語が
共通語として使われるようになった。
その名残りが濃く残っているものと思われる)
(卑近な例で言えば、青森の下北弁と津軽弁が意思疎通出来ないため、標準語を使うようなもの)
老人どおしが話すとき、主に日本語を使う。 意味内容は一昔前の言葉で(例,バカ=シンケイしてる)、発音は沖縄方言に近い感覚をうける。ローライアコン(台日ハイブリッド先輩の祖父)によると日本統治時代に「蕃童教育所」で教えていた先生は熊本出身とのこと。長沢利明氏の短信(焼畑の昭和草)の話と通じるところがある。
若者は國語(台湾華語のこと、基本的には北京語とほぼ同一、マンダリンと呼ばれる)に簡単な日本語をつかう。日本人の私に気を遣ってではなく、村の若者同士で話す時も簡単な日本語がでてくる。(例,見てみて=アンタ ミル)
若者の下ネタ話はほとんどが日本語で構成される。この話題の時は聞き返したり聞いてわからないということはない。
学校ではタイヤル語を教えているが子どもたちはほどんど話せないし、日常的には全く使用しない様子。老人はタイヤル語をたまに使う。それを、中年より上の世代は理解している様子だった。
先輩と長々話した結果、
これからのタイヤルがどうするか
(どんな道を選ぶか、
将来的にどんな村にして行きたいかの展望)
タイヤル自身が自覚的でなければ
ならないだろうということに落ち着いた。
(2024年現在の私はここからさらに
理解を深めたいと思っている)
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下記は、上記の内容を読んだ友人からの返信
彼女はチベットについて
論文を書いていたが
非常に悩んでいた
文系学生が何に悩み、
どう解決しようか
思案していることを
知ることができると思う
まず、中国で出版された
書籍の内容について
懐疑的であることは
中国関係を学ぶ
学生共通の悩みであると思う
文革で焚書があったため、
現存する資料について
政府の息がかかっているだろう
ということから
懐疑的にならざるを得ない
『ああ、頭が痛いです・・・
私が知りたいことはなんなんだ、
調べれば調べるほど
離れていってる気がして、
本に書かれてることって、
どこまでほんとなのかと疑うし、
歴史なんて捉え方によって180°違うし。
原住民←漢人←日本人、むーむー。
ミンゾクとミンゾクのドウカ。
ショウトツ。
トウタする側、される側。
キョウゾン。ショウメツのキキ。
タイヤルの人々について
何も知らないんだけど、
彼らは危機感を感じたり
しているのでしょうか。』
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(それを受けてテキトーなことを返すオレ)
(離人症状キメキメのとき)
物が散らかってるのって
そのときの感覚を
引きずりたいからやねんな〜(また合理化)
(部屋が汚いはマスト)
でもペシミストなので先を見て行きます。
(矛盾にきこえるなら考えてみよう、
未来ばかり希求し
現在に希望を見出しえない人間は
果たしてオプティミストだろうか、
どうだろう♪)
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懐かしいな、
やはりいろいろと
書き残しておくって
自分の変化を
感じられるし
『人生は四次元の芸術』
と思ってるので
(宮沢賢治からの着想)
(賢治には最終稿というものはなかったらしい)
(賢治は作品を何回も書き直しているが、
最終のものが決定稿ではなく、
第一稿、第二稿、第三稿…最終稿
その変化する全てが
まるっとひとつの作品であり、
賢治にとって最高傑作なんだって)
(オレお得意の曲解してる
可能性もあるから
専門家さんの意見を見てみてね)
もしここまで読んでくださったら
お疲れ様でございました
観光、夜市、ハイテクノロジーだけじゃない
台灣を感じていただけたら感無量っす!
(終)