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「私の受験物語」

気がつけば、大学共通テストの季節である。

気を抜けば「センター試験」という言葉がよぎる年代ではあるが、「受験」というのはどこか懐かしい響きがある。

ここまで書いておいて難だが、これまでの人生において、私は受験らしい受験をしていない。

唯一の受験となった高校受験にしたって面接だけの推薦入試だったから、いわゆる受験の苦しさをほとんど経験してこなかったのである。

私にとっての「受験」は単なる入学試験ではなく、学校側との話し合いであり、時間をかけた「説得」であった。

高校にかぎらず、重度の身体障害者が地域の学校に入学するには、いくつもの高いハードルがある。

当時はまだバリアフリーが充分に浸透しておらず、エレベーターのない学校のほうが当たり前だった。

特殊学級(今でいう特別支援学級)のカリキュラムも学校によってバラバラで、いわゆる通級(健常児のクラスで授業を受けること)を最初から省き、リハビリや将来の仕事につながる「職業学習」だけで完結させているところも珍しくはなかった。

リハビリや職業学習ももちろん大切だが、それらは養護学校(特別支援学校)でも受けられるカリキュラムであり、普通学校にいながら健常の生徒とほとんど交流を持たないのは、やはりもったいない。

インクルーシブ教育など、一般的には「何それ?」と言われてしまう時代である。

幸いなことに、私は小学校から中学まで地域の中学校を卒業できたから、全日制の普通高校に進むのは当然の流れだった。

小学校、中学校の卒業前に養護学校(特別支援学校)もいくつか見学にまわったが、普通学校と比べるとどうしても刺激が少なく、何となく「私が通うべき学校ではないな」という感覚があった。

私の「高校受験」は、4月から始まった。

高校に進むには学校の設備確認や入学後の体制づくりなど様々な「話し合い」があり、他の生徒と同じタイミングで対策を始めたのでは間に合わないから、中学3年の4月から高校側とコンタクトを取っていたのである。

今思うとフライング気味のようにも感じるが、重度障害者にとっての受験は長丁場なのだから仕方がない。

私が志望した高校は総合学科で福祉科が置かれており、エレベーターが最初から完備されていたから、バリアフリー面での問題は特になかった。

「話し合い」で最も苦労したのは、介助者探しである。

両親は送り迎えのみ、という大前提があったから、校内での介助者は別に探さなくてはならない。

1日につき1人、専属の介助者を公費で申請する制度(介助員制度)が当時から認められていたのだが、肝心の介助者は学校や個人で探さなくてはならなかった。

今も昔も、「人探し」には膨大な時間と労力が必要なのである。

介助員のシステムを初めて聞かされた両親は大慌て。同級生の母親や兄弟姉妹にまで声をかけまくったが、「平日昼間、ガッツリ8時間介護のために体を空けられる」人材は、なかなか見つからなかった。

授業補助だけでなく、食事や排泄など、本格的な介護が求められるのだから、どうしてもハードルが高くなる。

結局、高校側が卒業生を3人集めてくれて、曜日ごとにシフトを組むことで介助者問題はひとまず解決した。

次に引っかかったのが受験方法である。

私自身が最初から面接のみの推薦入試を希望していたから(受験勉強がイヤだったんだもん)、話し合いは自然と「面接をどうやって乗り切るか」が中心になった。

言語障害でまともに喋れないから、当然、別のコミュニケーション手段を考える必要がある。

こちらも高校側のアイディアで、「文字盤を読み取って通訳をする担当を置き、念のために面接官も2人増やす」という形で落ち着いた。

人がそんなに必要なのか、という気もしたが、学校側としては念のため、ということだったのだろう。

また、万が一推薦入試で落ちた時のことも考えて、「筆記試験では筆記担当の教員を1人配置する」というアイディアが出された。

高校側の協力もあり、10月までにはとりあえず、「受験のための話し合い」が終了した。

問題はここからである。

ここまではあくまでもシミュレーションであり、「絶対に合格する」という話ではない。

万にひとつの番狂わせで「受験失敗」などということになれば当然、半年間に及ぶ話し合いはすべて台無しだし、時間をかけてかき集めた介助員のスケジュールも白紙に戻ってしまう。

呑気な私も、さすがにプレッシャーだった。

面接は無事に終わり、推薦入試で合格できたから良かったものの、「もし落ちていたら……」という思いが今でも悪夢のように脳裏をよぎる。

合格発表の日、高校の窓口で合格通知書を受け取った時には、本当に嬉しかった。

今でも思い出すと初々しい、ささやかな「受験物語」である。

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