私にとってのナラティヴ・アプローチ
ソーシャルワーカーとして働いていた時期の後半で私が最も意識して使っていた技法(姿勢というべきか)はナラティヴ・アプローチだった。1998年頃に野口裕二先生に出会い、「ナラティヴ・セラピー」とホワイトとエプストンの「物語としての家族」を読んだことが大きな刺激となり、以後はずっとナラティヴ・アプローチが自分の柱になっている。
現場の精神保健福祉士時代、独学ではあったが日々の支援の中でナラティヴ・アプローチ的な対応を試みることがあった。以下のノートは、そうした頃に出会ったあるクライエントとの関わりの記録である。(後日談あり)
2006年4月のノートーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あるクライエントとの対話の中で、クライエントの急な変化が理解できず対応の糸口がつかめなくなっていた。
そこで、そのクライエントの状況を仮に別な人物に生じたこととして外在化させ、その状況の理解と対応すべきスタンスについてクライエントに助言を求めるということを行ってみた。
私は次のようにクライエントにお願いした。
「じゃあ、仮にあなたと同じような経験をした人がいたとしようか。その人は、昨日まで問題を抱えながらも何とか自分で乗り越えたりしてきた。昨日はちょっと辛いことがあって反応が起きてしまったけれど午後にはそれを乗り越えていつもの日課をこなしていた。それなのに昨夜から調子を崩してしまって、今はすっかり悲観的になってしまっている」
「そこで、この人がいったいどんな風に困ってしまっているのか、またこの人にどんなことをしてあげればいいのか、この病気のベテランでもあるあなたからアドバイスを貰えないだろうか」
クライエントは、しばらく考えてその人がどういう状況にあるか、周囲ができることとしてどんなことがあるかを話しだした。それはもちろんクライエント自身にとっても必要な内容であったが、話を聴かせてもらった私にとっても非常に参考になる話だった。その時点で私には気づけていない問題がいくつかあった。また対処の方法に関しても意外なヒントがあった。
私はクライエントに非常に参考になったとお礼を言った。そしてここから得られたことを軸に再びクライエント自身の問題に向かい合った。
WhiteとEpstonによる「物語としての家族」(金剛出版)に出てくる事例「ずるがしこいプー」のように問題そのものを擬人化するやり方は成人に対して用いるのはなかなか難しいなと思っていた。しかし今回のことは、成人のクライエントにも取り入れやすいかもしれないと感じた。(「ずるがしこいプー」の事例については、野口先生の「物語としてのケア」で解りやすく説明されています)
ただ、ちょっと難しいと感じたのは、いったん別人の問題として取り上げたことを再び本人のこととして話していく時にうまく統合がしきれないかなと思ったことだ。「ずるがしこいプー」であれば、ずっと外在化したままで話を続けていくことが出来る。しかし当人の体験を別人化するという方法では、いったん外在化したはずのストーリーを再び当人のこととして取り上げなくてはならなくなってしまう。この点はもう少し考察が必要なようだ。
実は、これ以前にも本人自身の外在化を試みたことがある。その時と今回との違いは、誰に向かっているかということである。前回は、「例えばあなたと同じような経験をした人が目の前にいたとして、今どんなふうに言葉をかける?」と尋ねた。この時は、外在化した本人に本人自身が語りかけ、援助者はそれを外部から見ている形だった。しかし今回は、外在化した本人に対してではなく、外在化された本人に向かい合う援助者に対して本人が助言をするという形をとった。この方法のほうが外在化によって問題と本人との距離をあけやすいという点と援助者自身がクライエントとともに解決に参加できるという点で有効と考えられるが、問題は、やはりその後の統合にある。本人から得た助言をどのような形で本人に返せば良いか、その点がまだ十分に実践に位置づけられないでいる。
2024年のノートーーーーーーーーーーーーーーー
実は、ここに出てくるクライエントとは、先に「手紙。」のノートに書いた方である。この1年ほど後に私は現場を離れてソーシャルワーク教育の世界に移ってしまったため、同様のアプローチを深めていくことはできなかった。
彼女にしても、この面接の後に問題が解決したわけではなく、その後もいろいろな苦労を重ねていた。しかし年月を重ねていくうちに自らの回復をパートナーとの生活の中で実現していった。「手紙。」のノートに書いたように援助者としての関わりが終わってからも毎年のように私に手紙を送ってくれていた。
2021年のある日届いた手紙には、本文とは別にコピーされた原稿が同封されていた。手紙には、通っていた施設の人に頼まれて回復についてある場所で発表した際の原稿だと書かれていた。原稿には、自分の過去を振り返りつつ、今はどんな気持ちで生活しているかが綴られていて、「これまで支援してもらった中で特に心が楽になった」項目として5つほどの経験も書かれていた。
その1つにここで取り上げた外在化の場面が挙げられていた。彼女はこの日の対応を正確に覚えていて、「立場を変えることで客観的に見ることができる」としていた。
15年前に1回だけ行ったことが、彼女の中でずっと生き続けていたことに私は驚いた。対応した時点では、大きく何かが変わることはなかった。しかしこの取り組みは、確実に彼女の中に残っていたのだった。
ナラティヴ・アプローチは、言うなればその人が人生における主役を取り戻していくプロセスに向き合うものでもある。私は、ナラティヴアプローチとは援助者が実践して終わりというものではなく、その実践が本人の中で生き続けていくということもあるのだと彼女から教えられた。
「物語が書き換えられる」とはそうしたことも含んでいるのかもしれない。