自分に合う「音」を見つける
きっと文芸翻訳者にとって一番幸せなことは、自分に合う作家を見つけることだ。
柴田元幸さんがポール・オースター、岸本佐知子さんがミランダ・ジュライを見つけた(見つけられた)ように。
20年間にわたり、村上春樹作品をデンマーク語に翻訳しているメッテ・ホルムさんは、翻訳を通じてその人の「音」を探していると語っている。
↑翻訳を織物に例えていたり、面白いので興味のある方はぜひ読んでほしい
そしてその音は、自分に合う音か、愛せる音でないといけないはずだ。
異なる言語、文化背景を超えて作者の目線に入り込み、原文の持つ音を再現しようとするならば、もともと自分の中に近い音を持っているか、共鳴できないと難しいと思う。
がむしゃらな努力や根性でギャップを埋めようとすると雑音が入り込み、ナチュラルには響かない。
原文を読んだ瞬間に自分の魂に触れるもの、もしくは全然違うけど「なんか好き!面白い!」という愛がそこにあるかどうか。
もしそんな作家に出会えたら、メッテさんのように生涯をかけて一人の作家の作品を翻訳し続ける運命になるかもしれない。
同じ作家の作品なら、同じ音で聞きたいと思うのが人間だからだ。
私も柴田元幸さんの翻訳をきっかけにポール・オースターにはまり、ポール・オースターの作品というよりは柴田さんの翻訳が読みたくて作品を追いかけている。
英語で読むのは労力がかかるというのもあるけれど、恐らく柴田さんというスピーカーを通じたオースターの音が聞きたいのだ。
例えば、「ライ麦畑でつかまえて」という作品は断然英語で読みたい。それは原文を読んだ時に私が感じる音が、どの翻訳作品にも反映されていないように感じるから。
(村上春樹訳も出たけれど、元々彼の作品のファンであることもあり、どうしても村上さんの姿が前面に出てきてしまう)
昔、ハリー・ポッターが流行っていた時に、「翻訳者のキャラが強く出すぎていて違和感を感じたから、英語版を買った」という友人がいた。
翻訳の内容にこだわらず、ストーリーや話題性重視の人が大多数だったからベストセラーになったと推測するけれど、彼女の感覚はとても鋭いと思う。
機械翻訳がどんどん発達していく今後の時代は、「この翻訳者だから読みたい」というニーズがもっとメジャーになるかもしれない。
そして、一部の大御所先生が市場を独占するのではなくて、それぞれに合う音を見つけた翻訳者が、あちこちに散らばる形で光を放つ時代になるのだろう。