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食事が苦手な私のこと①エッセイ【ASD幼少期】
食事。
それは時に娯楽であり、人間関係の構築に必要な要素である。
そして食べることは生きること。
そんな食事が苦手な私のことを何編かに分けて綴っていこうと思う。
幼い頃から私は食べることに対してとても過敏だった。
例えば、幼稚園で「残さず食べましょう。」と言われれば、強いプレッシャーとストレスを感じほとんど喉を通らなくなるし、母が作ったキャラ弁の海苔でできた目が顔からずれ落ちていたりしたものならひどく動揺して食べるどころではなくなった。
食材や作ってくれた人に対する感謝が足りないと思われそうだが、むしろ逆でその思いが強すぎて調理にかけられた手間や愛情をうまく受け止めることができなかった。
これも一種のコミュニケーションと考えると、こういったことが苦手なのもASDの特性なのかもしれない。
あの感覚を言葉にするのは難しいが、手間や愛情、食材への感謝を重く捉えすぎていて苦しくなっていたという表現があの時の心情に近い気がする。
また、偏食も激しかったのだが特に「肉を食べる」ことがものごころつき始めたあたりから難しくなった。
命をいただく。
その事実がまだ幼かった私には重すぎて受け止め切れなかったのだ。
それに「動物の肉を食べる」という行為にどうしても違和感を拭えなかった。
言葉を選ばずに言うと、気持ち悪さのようなものを感じていた。
食卓に並んだ肉を見るたびに、生きていた姿や屠殺されるシーンが浮かんでしまい喉を通らなかった。
一方で魚を食べることができたのは身体の構造が人間からかけ離れていたり、動物と比較して感情が乏しかったりするからだと思う。
そんな中、私が普通に食べられるようになったのは食べられない自分を受け止めたことにあった。
「何もおかしなことではない。」
と1つ、1つの事象と感情を受け止めて、「食べられる時に食べられるものを食べられるだけ食べよう」と心がけるようにしたら、長い月日をかけて手料理も、母のキャラ弁も、肉も食べられるようになり、食を楽しめるようになった。
そうして食いしん坊よづきが誕生したのであった。
つづく(たぶん...)
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