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徒然 「沈黙」を怖がる私たち【『モモ』感想】

私たちは『沈黙』を恐れている。
それは、喧騒の中から生まれた言語でしゃべっているから。

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ミヒャエル・エンデの『モモ』を人生で初めて読んだ。
私は児童文学というものを読まずに生きてきてしまった。
小学生のころ、私はディスレクシア(読字障害)の傾向があったため、読書が嫌いだった。あのころ読んでいたのは、『妖怪レストラン』『おばけマンション』『名探偵』シリーズぐらいだった。
あの頃みんな読んでいたような本は手に取ったことすらなかった。
『ハリーポッター』シリーズも『エルマーの冒険』も『マジック・ツリーハウス』シリーズも『ダレンシャン』シリーズも何も読んだことがない。

その後小学四年生になってから米澤穂信さんの『古典部』シリーズを読むことで、読書嫌いは克服された。
そうして、ライト文学を読みだすようになる。
そうなると、「児童文学なんて」とイキってしまい、本を読めるようになってもなお小学校の図書室にあるような本を読むことはなかった。
今思えば、児童文学などの子供向けの本の行間が合わなかったのだ。行間に文章がぶれて現れる。前後の文が重なって見えるから読めなかったんだ。なんてことはその頃はわからなかったけど、無意識のうちにそこから避けていたのだろう。

とにかく、読まなかった。大人の振りがしたかったんだ。
クラスメイトとは違うんだ、って思いたかった。
それでも、その経験があったからこそ今ここで文章を書くことが出来ている。

大学も文学を学ぶような学校に来た。
読書が出来ない人間だったのに。

そして、学ぶにつれ、児童文学というのは文学という歴史においても実に大事であり、素晴らしいものなんだとわかった。

アメリカ文学、イギリス文学、ドイツ文学、フランス文学。

それぞれに講義がある。
次は、名前は聞いたことはあるけど読んだことがない、という事実が恥ずかしくなってくる。

『トム・ソーヤの冒険』も『ファーブル昆虫記』も『ガリバー旅行記』も『赤毛のアン』も何も知らずに生きてきた自分って駄目なのでは?

そう、思いながらも手を出さなかった一年半。

久しぶりに本でも読もうと図書館に行った。
昼前の図書館には、子どもの姿はなかった。だから、児童室に入ってみたんだ。懐かしい気持ちでいっぱいになる。
ああ、この本好きだった。この本読めなかったな。
そして、『モモ』を手に取った。あの頃は大きくて、重くて、読む気がしなかった本は、茶色く変色して、破れて外れそうになってもなお存在していた。

きっと未だに読んでいる人が多いのだろう。
奥付には1976年第一刷発行と書かれている。そんなにも長い間、読まれている文学を私は文学の道を目指しながら読んでこなかったんだ。

ページを開いて、物語に入っていく。
語り口は、神視点。
それはまるでお母さんの読み聞かせのようで、落ち着き、物語に集中できるように作られている。
表紙のぼさぼさ頭のつぎはぎのコートの人物は、時間どろぼうだと思ってたけど、これがモモなんだ。
子どもへの分かりやすい文章だけど、内容は哲学であるということ。
私は何も知らなかった。
この物語のすばらしさを、凄さを、何も知らないでいたんだ。

この話は、現代の人々の社会問題を描いているのだ。

私たちは「時間がない」「暇がない」「忙しい」という。毎日毎日、働き続けて時間を使っている。

世の中で「ブラック企業」というものが横行し、そこで働く人たちの心はすり減り、自殺する者も少なくない。
そんな現代において、この作品は改めて見つめ直されるべきだろうと思う。

この物語では時間どろぼうによって、人間は『時間』を奪われている。
ゆとりのある生活をするためには、時間が必要だ。
だから、未来に自由な時間を得るには今、時間を節約する必要がある。
仕事はだらだら喋らず早くして、寝る時間も最低限、コーヒーも挽く時間なんてない、仲のいい友達とも遊ぶ必要はない、ペットの面倒を見る時間も無駄。全部最低限まで削りましょう。
そしてそれは全部『時間貯蓄銀行』に預けよう。

時間どろぼうは、人間から時間を奪い、働かせ続けた。

早くて、安いものがいいもの。

それは完全に資本主義であり、ファストフードやファストファッションのような世界だ。仕事に時間をかけることもダメで、早くやって別の仕事をしなければならない。そういう世界にもうすでに私たちはいる。

だけど、こんなに深刻にはなっていない。それはまだこの物語の途中の段階だから。

時間どろぼうは『時間』を奪っている。
だけどそれは、厳密には『時間』ではなく、『ゆとり』『暇』『余裕』という人間の余白の部分なのだ。
『退屈だ』と言う思う時間も重要なのだということを感じさせられる。
『暇』は人間にとって必要なものなんだ。
これは國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』に通じるのだ。

人間は、暇と退屈を嫌う。
忙しくしているほうが素晴らしい人間である、とされている。
暇な時間がある人間はダメ人間なんだ、と思い込まされる。

『暇と退屈の倫理学』に書かれていることは、『モモ』に描かれたことだった。

ぼーっとしている時間は全て無駄だということにされた現代がここにある。

でも、そんなわけない。
暇な時間こそが楽しいのではないか?
仕事をしてない自由な時間、もしては、真剣に丁寧にする仕事、そういうものが人間を人間たらしめるのではないか。

大学の講義でマックスピカートの『沈黙の世界』を学んでいた。
内容としては、『沈黙』は人が言葉を語らないから出来るのではなく、もともと『沈黙』があって、『沈黙』が充溢するときに言葉が出来るのだというようなことだ。『沈黙の充溢』とは自己自身の充溢である。もっと簡単に言えば、思いが溢れた時に言葉が出てくる、といったようなことだろう。

なにか近いものを感じないか?

『時間』とは『沈黙』なのではないか?
そんなことが私の頭を行く。

これは『沈黙』を奪われたんだと気付く。沈黙こそが私たちの人生の深みを出し、思考する時間を作り、言葉を喋らせる。

だけど、『沈黙』の時間を奪われた彼らは、思考する時間を失い、心から出る言葉を失い、人生の深みを失い、生きる理由を失った。
生きている時間を楽しむことが出来なくなり、ただ作業として生きていく。そして、灰色になって死ぬ。

私たちは『沈黙』があるからこそ、人生を楽しむことが出来るのだ。

そして、思う。
あまり物事を考えてないタイプの人間と喋っていると、ふわふわとグレーの霧のようなものが体を満たす。違和感はあるが何の違和感があるのか分からない。合わせる私も、ただもやもやと表面的な言葉を口から出している。一見楽しいようだけど、芯がない会話だ。
そして、『沈黙』が私は怖い。
人と喋っていて、シーンとした瞬間心が冷える。
ああ、どうしようしゃべらないと、早くしゃべらないと、と焦って適当なことを喋り始めてしまう。
これは、きっと多くの人が同じことを感じているのではないか?

これは、『沈黙』から出た言葉ではなく、『沈黙』を失った喧騒の中から出た言語でしゃべってしまっているからではないだろうか。

喧騒の残響、反響だけで私たちは会話をしている。
だから、本来の状態である『沈黙』を恐怖するのだろう。

喧騒の中にいたほうが、楽。
一部になってしまった方が、きっと生きていくのが楽だ。
私は、微妙に本来の状態を覚えていたのだろう。
『沈黙』の状態にも恋しさがあって、でも、周りは喧騒の中でいるから『沈黙』に戻ると仲間外れにされるだろう。非難されるだろう、って怖くなる。
『沈黙』の存在を知ってるから、すぐそこにいることを知って気になってしまう。他の人はまだ気づいてないその『沈黙』。

私が、パーリーなピーポーみたいな人にあこがれるのは、『沈黙』の存在なんて知らなくて、喧騒の中で楽しそうに生きているからだろう。今の現実だけでいい。楽しく生きる以外知らない。そんな態度にあこがれる。

でも、それは灰色の男たち時間どろぼうにちらつかされているものだ。
遊び方を知らなければ遊べないお人形のようなもの。
私たちの中から湧き出てくる遊びではなく、大人から与えられる遊びのようなものなんだ。

いいなって思う。
何も考えないでいいのは楽だろうなって。
楽しそうだなって。
この思考の苦しみは辛いんだよ。

でも、それを放棄したら、『沈黙』を知っていたことを忘れたら、私は時間どろぼうにすべてを奪われてしまう。

時間とは、沈黙なんだ。

私は今、バイトを始めた。
それは、時間の放棄かもしれない。
だけど、それを通して何かを得たいと思うのだ。
『沈黙』のことは忘れない。
『時間』を素敵に使うために、バイトに時間を割く。

正しくないかもな。

私はもうモモのようにはなれないのかもしれない。

いや、そうであるために私は文章を書くのだ。
小説を読むのだ。

そう信じて、時間どろぼうと戦うつもりだ。

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