生きる覚悟と死ぬ覚悟を持って生きること
突然ですが、わたしには兄がいます。
でも兄は、もういません。
わたしが写真をやっている一つの理由として
彼の存在があることを2年前のnote
「生と死と、写真とわたし」で触れています。
今日で亡くなって14年経つけれど
その日のことは鮮明に覚えているし
未だに9月という月が苦手でやっぱり憂鬱になるものです。
それほど身近な人の死というものは
遺されたものにとって大きな痛みを伴い
正直、完全に癒える日など来ないと思っています。
もちろん時間が経つことで和らいでは行くけれど
ともに生きた日を忘れることなどできないから。
そんな憂鬱な9月に
大切な友人の訃報が届きました。
同じフォトグラファーでご家族写真も2回撮らせてもらい
彼女のスタジオにも遊びに行き
わたしのアトリエにも来てくれ
その時は飽きることなく
朝会って夕方別れるまでずっと話していて
8月東京にも一緒に行ったり
「ちょっとゆにちゃん大丈夫なん?」と
よくDMやLINEをしてきてくれる
お姉ちゃんのような人の訃報。
10月に会えるよ!この日に会おう!と
つい先日連絡をもらったばかりだったので
「え?」と頭が真っ白になっのは言うまでもありません。
それでも彼女の死は
信じられないけど、信じたくないけれど
紛れもない事実でした。
ママのために何かをしたいと同じ志を持つ仲間で
同じ母として、フォトグラファーとして
ともに悩み、ともに歩み
いろんな心配をしてくれ、受け入れ、認めてくれていた
姉のような友人だった彼女の死は
本当に「悲しい」の一言に尽きます。
共通の友人と彼女のことを今朝話していて
会いたいな。もっと話かったな、って
叶わない願いを思わず溢してしまうほど。
そして彼女のご家族のことを考えると
若くして亡くなった遺族の立場を知っているが故に
胸を締め付けられる思いでいっぱいです。。
でも、どうやっても
わたしにできることはないのです。
悔しいけれど、悲しいけれど
わたしは、わたしを生きるほかないのだと。
「ゆにちゃんが撮る写真が好き」
「ゆにちゃんが撮ってくれる自分の姿は
すごく素敵に見える、嬉しい」
といつも言ってくれていた彼女。
頑張るね。
頑張るから、どうか見守っていて。
どこで、どう生きてきたか
今ここにある日々を写真に残そう。
写真に写る姿は
生きた証・生きてきた軌跡そのものだから。
なんでもない毎日の写真は
自分が頑張ったという自己肯定
自分が愛されていたという安堵
遺された人たちの支えとなると思うのです。
そんな写真を大切に撮ってゆきたいし、
ついうっかり当たり前だと捉えがちだけど
日々は奇跡の連続の連なりで
生と死は隣り合わせに存在するからこそ
生きる覚悟と死ぬ覚悟をともにもち
感謝を忘れず生きてゆきたい。
ありがとう。大好きだよ。
惜しみない言葉とハグを
大切な人たちに贈りたい。
今を抱きしめて、写真を撮りたい。
出会ってくれてありがとう。
わたしは、あなたに出会えて幸せでした。
また、どこかで、巡り巡って出会えますように。
何にもできなくてごめんね。
ずっとずっと、大好き。忘れないよ。
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