解離性障碍と催眠の関係性
どうでも良い呟きとして、ふとどうにも綴ってみたくなって書いた記事。
言語化がひどく難しい領域の話であるので、語弊を生みやすいかもしれません。また、文中でも記しておりますが、解離性障碍のみの話ではありません。
解離性同一性障碍当事者は、壮大な壮大なパーツセラピーの途中。
解離性同一性障碍で交代人格が120人以上に達した上、結果的に一番奥底(=一番外側という言い方もできるかもしれない)から包括したかのように、そして最終的に自己セラピーにおいて統合でも共存でもなく「大海」のような状態で寛解をした身において、
そして催眠療法士である身において、感じること。
(感じるのだが同時に下手に言うと語弊を持たれかねないのであまり言語化できないのだが)。
寛解状態となって(まあ、寛解をどう定義するかもいろいろと出ては来るが)、そしてこの器の半生をほとんど思い出すことが可能な状態になり私の身で言語化して発することも可能な状態となって、初めて、そして何より感じるのは、
私(我々)は今まで30年以上、催眠状態にいたということ。
人は催眠状態に入っていることは通常自分では判断できない(催眠状態・潜在意識という状態自体が判断という概念を超えるため、そこに判断自体存在しなくなる)。訓練した催眠療法士は、解催眠した後で、自分が催眠状態であったか否か、またはどれくらいの深さに入っていたか、判断できるようになる。
通常ひとは、どんな人でも一日に10回以上は催眠状態と顕在意識優位(覚醒状態・解催眠状態)を繰り返している。
これは説明しても恐らく容易に共有できるものではなく、ひたすらいろいろな角度から(聞き手それぞれに)引き出してもらわねばなかなか伝わらないか語弊があるのではないかと思う。
が、我々の場合は、どうやら、そもそも、元々ある程度の催眠状態に入ったままであり、その中でもちろん浅い深いは繰り返していたし、その中で「催眠に入る(つまり深化する)」こともあった。が、完全に醒めたことはたった一度としてどうやらなく、「大海」のような状態になって初めて、つまり本当につい最近になって初めて、やっと、「解催眠」されたような感覚があるのだ。つまり、「解催眠されたような感覚」もあるのだ。
まさに、初めて、この世に生まれたとほとんど同等の感覚である。
なぜ催眠状態であったという言い方になるかという一番わかりやすい具体的に言語化できることを挙げると、
今まで30余年の記憶が、”解催眠”後のものに比べて、本当に、催眠下で体験していたかのような記憶の在り方なのだ。
しかも、元々交代人格であった私個別の感覚も、他の交代人格の記憶も同じように。
催眠下で非常に長時間に亘るセラピーを行った時、そのセラピー下であったこと(身体の内外拘わらず)の記憶は、解催眠後に思い返すと、非常に独特、特有の記憶の在り方をしている。
(それほど違いのわかるほど長時間の催眠下での、しかも催眠下でとてつもなく顕在意識の思考力も使うようなセラピーをやったことがある人自体も少ないかもしれないが…私があの師についていたことがあったからこそ、今わかっていることでもある)
それと同じような感覚なのだ。
そして、客観的な見方をしても、催眠と解離というものは論理的にもほぼイコールである。切っても切り離せない概念であり、催眠は解離を利用し、解離は催眠を利用して起こることであることも、否定できない説明だ。
そして、解離性同一性障碍当事者やその交代人格たちというのは、日常からして、全く思わぬ時に強烈に暗示が入ることがある。そして基本的にいつでもほとんどの場合、暗示が入りやすい。
更には解離性同一性障碍当事者や交代人格を催眠誘導すると、まず入り過ぎるほど、催眠療法士が下手をすると慌てるほど物凄い深い催眠状態に入る。
更には、交代人格たちは、目覚めているように表面的には見えるにも拘わらず、交代しただけで催眠下でもよほど達者なやり方をしなければ不可能なほどの”身体的生理的変化”を起こす。
これらは、そもそも催眠状態だから……と、私自身の体験として感じた。
そして、我々自身も、まあ最初に私に催眠を催眠という形でかけた人(師)もエリクソン的達人であったわけではあるが、催眠をかけるより前、もはや師の自己紹介や会話の時点で、相当深い催眠へと入っていた(後から、師はこの時も実際エリクソン催眠を使っていたということは知った)。
更に、この師のもとでも、また、その後の日本初の催眠療法協会創設者である師のもとでも、解催眠時、しっかりと解催眠することができず、一度解催眠した後、更にその2倍の数を使って解催眠してもらい、それでも身体が痺れて動かず、他の人たちが全員寝椅子を片付けて講座を終えて最後の話や質疑応答をしたり帰り準備をしてみんなが帰り出すまでも、動けずにそのままの状態で休ませてもらっていたという事態もあった。
私自身がクライアントを入れる時も、解離性同一性障碍や、解離と深い関係性のある精神疾患を持った人は、例え初めてで軽い誘導でもとてつもなく深い催眠に入り、また、解催眠に手間取る。私の体験では100%。その上、この独特の入りやすさや出にくさのためにクライアントの中の深い問題の存在をはっきり裏付けられるように気付くことすらある。
(催眠から出るのが下手な人は自分が誘導する時もクライアントの解催眠が下手だとはいうが、現在の私はもはや例え2,3秒でもはっきりと自分で解催眠もできるし、そもそも私は自分自身が出るのが下手である自覚があったし出るのが下手な人ばかり相手にするもので解催眠のやり方自体もなかなかつい激しくなりがちで、精神疾患を持っていない受講生仲間などにやるとびっくりされることすらある)
また、他にも日常的に私は人にも自分にも、また他者に協力してもらって自分に対しても随分とあらゆる技法を取り込み組み込んで行ってきたのでやはり説明しづらいが、
私自身が一気に本当の意味で「大海」へと向かっていくようになった時期、気付けば、解催眠技法を要所要所にいろいろなやり方で日常に組み込んで他者にもやってもらっていた。
同時に、その頃から、五感の感覚が(私の場合は視覚以外ではあるが)どんどん研ぎ澄まされていき、これが世界なのかと、これが「音」なのか、これが「味」なのか、これが「感覚(触覚)」なのかと、どんどんどんどん驚きと共に感じるようになっていっていた時期でもあった。
また、これも個人的体験ではあるが、昔から、あまり大きな声でいうわけにいかないことであるのだが、私は随分と、他者に対して常に相手の潜在意識と直に対話するものだから相手を催眠誘導ばかりしてしまっていたらしく、普通に話しているだけなのに、以下のような人間関係が非常に多くあった
・相手の言語で出てくるものと全く裏腹の本音や、どうしてその本音が顕在意識ではこう出てくるのかという途中計算式などが(顕在意識の言葉よりもはっきりと)聞こえてきてしまっていたため、相手の顕在意識(要するに表面上の言葉の会話)ではどうやら意味がまるでちぐはぐだったらしく冷たく当たられたり怒りを感じられたり「なんだこいつは」という状態で在ったにも拘わらず、相手が相談したいとき、困っているときだけなぜか私のもとへ来ては、済んだら当然のように去っていくというような関係
・相手の潜在意識としては「なぜか自分をわかってくれる」と感じたのだろう、いつの間にか相手の顕・潜がひっくり返りトランスに陥っていたり、相手の潜在意識がここぞとばかりに解決したい問題を出してしまうのか心身症状になって現れたり、時にはトラウマや水面下にいて本人も知らなかったような交代人格が出てきて解離性同一性障碍が”作られて”しまったり
そして、私はそういう時、もはや幼い頃から周りがこんなのばかりだったので(その上、我々の中にはなぜか、敢えて言葉で表現すれば潜在意識の深いところから出てきたような人格が多く、そもそも本能的に顕在意識よりも潜在意識の仕組みの方が当たり前のようにわかっていたような部分があった)、本能的に相手のトラウマを解除したり、心身症状を緩和していったり、ということを基本的には会話の中で、または潜在意識との会話や潜在意識同士の会話、暗示の中で行っていた。
その中でも、解離性同一性障碍当事者や、私との中で水面下の交代人格が出てきたような人との関係性においては、今でこそ初めてこうして言語化して説明できるが、壮大なパーツセラピーを行っていたのだと今ではわかる。
日常生活の人間関係そのものが、壮大なパーツセラピーのセッションの一部となっていた。
実際、かなり深いパーツセラピーをいくつも学んでから、確かに技法やタイミングやクロージングの仕方などを当て嵌めていくと、読み解くことができるようなことをやっていた。
私が第3の道(大海)を発見してから2人解離性同一性障害当事者と関わり、そしてこの2人ともはクライアントとしても半個人的にも(今から思えばまさにエリクソンの事例のような感じだった)関わっていたが、2人ともが第3の道に入った。
壮大なパーツセラピーを更に外側から俯瞰し、今いる段階やパーツセラピーの過程・段取りを見極め見据え、タイミングさえしくじらなければ、そして起こることすべてを利用して壮大なクロージングの過程を辿って行けば、第3の道に入る。
そして、当事者は日常で常に常に、表面的に見える交代人格達の下に脈づく偉大な医師が、何をどうしてくれと、パーツセラピーの指示をくれている(通常のパーツセラピーもそうだ。クライアントの中の偉大な医師がパーツたちを通したり通さなかったりあらゆる方法で私に指示をくれるので、ただただそれに従う)。
(まあ…私は、解離性同一性障碍当事者・交代人格でなければできないことも、その中で随分、してはきたが…)
その意味では、今の”世界”というものも、私は壮大な壮大な壮大なパーツセラピーの過程なのだと思っている。
まあ、世界そのものというパーツセラピーはともかくとして、これは、解離性同一性障碍当事者だけの話ではない。
解離と深く絡みついている精神疾患、すべてにもほぼ同じことが言える話だ。解離関係は、壮大なパーツセラピーと同じことが起こっている。それを始めてしまったのが(表面的には)何も知らない当事者であるというだけの話である。
(ただしこれは自己セラピーとは少し意味合いが違う)
…ちなみに私自身、今になってたまに、「良くぞまああれだけ、表面的には何も知らない”つもりに”なっていたな…」と感じることがある…
しかしながら、こんなこと、一体どこで誰にどう話したら、共有してもらえるだろう。
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