根本的アプローチと、対症療法の決定的な違い―「対症療法を目的とした対症療法」がほとんど全ての領域に採用されつつある現代日本社会の中で「本当に絶大ではやい」のは―
対症療法や対症ヒーリング(日本でスピリチュアルと呼ばれる系統のものはほとんどがそうです)と、
本来の自分と一致して自分の人生を取り戻し人生において自分の心身が「本当に健康」になってしまう根本療法とは、
はっきり言ってまったく方向性の違うものです。
現代日本でほとんどを占めている「対症的療法」とは、ビジネス療法です。
ビジネスとして成り立つため(つまりクライアントにわざと何らかの後を引く問題を残したり寧ろそのような次の不調の種を撒いたりして、患者が患者のままでいるための仕組みを仕込む)に作られているものです。
これをわかってやっている人たちはまだいい。というより、そういう人たちはそういう生き方を選んでいるわけですから、誰がとやかく言うことでもないのですが、これをわからないままに
「無知ゆえに広い深い視野で見ることのできないゆえに自分自身で気付けない潜在的に植え付けられてしまっている『現代の概念』」の上で踊らされて、この仕組みがわからずにこの仕組みに取り込まれて患者やセラピストをやってしまっている人も爆発的に増えているのが現代。
本当に効果が絶大ではやい療法というのは、本人の顕在意識では気付かない。本人の顕在意識にのぼったり処理することすらできないほど絶大で物凄いスピードであるから。
本人は「何かが起こった」程度であったり、寧ろ「このセラピーは意味がないのではないか」「このセラピーは私には合っていないのでは」くらいに感じさせる(そう感じてしまう理由、メカニズムもあるのだが)。
顕在意識(脳)は、実は自分に起こったことに”気付く”のが一番遅い器官なので、セラピー効果がどれほど絶大なものであったか例え気付いたとしても、数年後数十年後だ。しかもその「数年後」のときには既に「その時点での自分の状態が自分の当たり前」状態なわけなので、すっかり忘れているかもしれない。根本療法(不純物をプラスするのではなく今まで気付かないけれどもクライアントを覆いつくしている不純物を取り除いていくことで本当の透き通った心身の健康に方向づけて行く療法)とは、そういうものなのだ。赤ん坊が初めて立ち上がったとき、哺乳瓶から離乳食に変わったとき、内部でどれほどの大変化が起こっているか本人は自覚も記憶もしていないのと同じように。
更には、そういう根源セラピーは、セッション時だけではなくその後もそうとうホリスティックに影響を及ぼし続けるのだが、本人はほとんど(学んでいるわけではない多くの場合は”まったく”)気付くことができない。
余程、理論の原理原則に通じ、修練を積んだ者でなければ、セラピスト側すらも(顕在意識では)何が起こっているのか、どれほどの効果が現れているのか、気付くことができない。
対症療法は、セラピーの真髄がクライアントの中で実現されるよりもビジネスとして繋ぐことが目的であるため、クライアントには「顕在意識に」絶大・即効効果があるかのように感じさせるが、そう「顕在意識レベルでわかる(わかったつもりになる)ことができる」時点で、対症療法であるわけだ。
「意識」で目先に、目に見えるかのような感覚で効果効力が起こっているように感じるほど、ビジネス手法がうまい(実はそのビジネス手法には、根本療法に使う潜在意識と身体のメカニズムの技法が使われているのだが、哀しきかな、クライアントをひっかける手法に使われてもセラピーそのものにはまるで使われていない。というより、開発者から受け継がれる表面的やりかただけマネしてしまっているがために、自分がそんな洗脳技法を使ってしまっていること自体にすら気付いていないので、意図的にセラピーに導入することすらできない。)
即効で大きな効果が出たように「顕在意識に感じさせる」(その代わりにその下では長期的に見て不調を繰り返したり複雑に深めるなどの重いものをたくさん撒き、身体を苦しめ自分を麻痺させねばならないほどに無理をかけさせていく。)、「即効薬」でなければ、現代、「売れ」はしないのだ。
なぜなら、顕在意識で感じられる程度の表面の上っ面だけで、しかも顕在意識で変化を認知できる程度の遅さ(情報量の狭さ少なさ浅さ)のものこそが、「即効薬」という概念の定義だからだ。
(ちなみに根本的療法でも、例えばお話をしていただけでも長年詰まったようになっていた身体の状態が驚くほど流れた、などという感想を持たれるかたもいる。ただ、これはどちらかといえば潜在意識で感じていることを顕在意識が「二次的(表面的)に」感じていることなので、その瞬間は変化を感じても、その「大きな変化を感じたこと自体、その感動や驚き自体」を、顕在意識ではすぐ意識的記憶からは消えてしまう。顕在意識の感覚や記憶に残すにはあまりに大きすぎて受け止めきれない変化であるという言い方もできるし、実は本物の根底からの地殻変動、まるで地球自体が動くほどの変化や成長は、顕在意識で感じていることはできないものなのである。これは、特に施療が必要な問題を抱えた人たちには、なおさらなのである。)
しかしこれ(対症療法)は、当然ながら次の対症療法の必要性をもたらす。長期的に見れば、それこそ人生を通じて「向き合い(向き合っているように感じさせられ)続け、あらゆる角度から形を変えて(形が変わるから続き物ではなく別物だと本人は錯覚してしまう)不調が繰り返す、本物の健康を知らないままの」人生になる。
しかも、こういう対症療法ビジネスは、殊に、「人生での苦しみや辛さを感じてきた、と感じている人」や、「複雑性の心的衝撃を深い部分に受けている人」「本当の愛情を感じることを知らない人」「人間関係で問題を感じやすい人」などなどを、ひっかけやすい。まさにそちらのほう(セラピーそのものよりも客を釣る技術のほう)に実は特化してきた方向性の療法であるのだから、当たり前のことである。
同時に、「施療側になるために学ぶ人」にも、これまた、<初期のうちに>、「これはすごい!これは効く!」と、感じさせ、第一印象を強烈に暗示(洗脳)として植え付ける。
(逆に、根本的アプローチの療法は、一見何をやっているのか良くわからないが、本気で学び始めて修練を積んでくるとやっと初めて、その「顕在意識」においてもそのとてつもない奥深さ巨大さ、どれほどに計り知れない効力なのか、やっと「視えるようになって」くる。何より自分自身にどれほどの効力が現れていたのかが、本当にやっと初めて気付くことのできる眼が養われてくるかのような感覚。)
そして、根本施療の立場から言わせてもらってしまうと、これのタネに本人が気付かないために、本当に必要な一番基礎的な心身のメカニズム・原理原則だけは教えない。教えないから、本当に必要な技術をセラピーに使うことのできるセラピストは育たず、無知の中で「自分が必要なことを学ぶことができていないことすら知らない、実は付け焼刃で表面的テンプレートで施術だけできるようになってしまった」者ばかり輩出されてしまう、という事態がありとあらゆるところで今の時代、起こっている。
セラピストとクライアントが実は同レベル、同じ土俵の中にいるのである。しかも、それ自体に気付いていない!(寧ろそれに気付くきっかけや能力がどんどん塞がれるというトラップまで仕掛けられている)
どんなに少なくとも、私は、本質から離れわざわざ(ヒト、いのち、魂の)本質を無視し、いわば目先の何かを施療したかのような「感覚を持ち」「表面的に症状がとれたかのような気分になる」代わりに次の不調の種を撒く、しかも施術者自身がわざとそうしていることに自分で気づいてすらいない、というようなものは、「セラピー」ではなく、「ビジネス」である、と思う。
私は、そんなことをするくらいなら、私自身の人生の大損害である。本当に必要な人に、届けばそれで良い。
ビジネスとして(割り切って)やりたいひとは、それはそれでその人の人生で満足ならばそれで良いが、少なくともそれは、わかってやっていたほうがいいものだ。なぜなら、「その人自身の魂の奥底にあるホスピタリティ」を資本主義という浅はかな無知の下に既に植え付けられてしまっている前提に押しつぶさせるということを多少和らげることができるから。
知らずに、本気で対人支援のつもりでやっていると、あなたの「身体(魂の奥底)」ではわかっているので、いつかどこかに何らかの形で「また」でかい不調がくる。
わからないなら、わかりたい、わかる方法を知りたいなら、せめて学ぶだけ学んでから(表面的知識をつけるのではなく、「自分自身の見方、自分自身との本当の向き合い方」を身につけるまでに成長してから)にすると良いものだ。
そしてもうふたつ。
ひとつ。
ビジネスとして対症療法でクライアントを表面的に驚かせたり満足させたりして、その代わりその奥底に別の不調の種を植え付けられた人たちの尻拭いを、誰かに押し付けている、ということを。
今、本当に、あちこちでどんどん自分の奥底を複雑化させてどうにもならないほど絡まった人たちがどれだけ増えていることか。セラピストとしても個人としても、どれだけ出会うことか。
ふたつめ。
クライアントを生きやすく解放している助けているような気になることで実は(最近の流行語で言うと)「マウント」をとって、実は「そういう意味で」クライアントを自分の手のひらの上で転がして、あなた自身も「役に立っている」という自己肯定感を仮面だけつけて(身体は実はわかっているので)、そしてそういうこと自体を繰り返そうとする、クライアントの前にまずあなた自身の人生にとって建設的とはいいがたいプログラムにあなたが突き動かされている、ということを。
もちろん、それでも堂々と、ビジネス目的でやりたいひともいる。まあ、それならばセラピーと名乗る必要もセラピストやヒーラーなどと名乗る必要もないわけなのだが。
しかし、あなたは、本当に表面的な対症療法で、しかもあなた自身もビジネス洗脳の前提概念に支配されながら「他者に別の重い不調の種を撒くことで今の問題が解消されたかに感じる」手品で儲けたり、自分自身もその複雑化した種で何か生きづらいのに「それ自体になぜか気付こうとしない向き合おうとしない自分」が長引いたり、人生のとあるときに何かの形で不調が噴出したりする地雷の埋まっているような人生を背負っていたいのだろうか。
それとも、本当の意味でどこにも矛盾の発生しない根本の原理原則を紐解き腑に落ちる人生、そして同時に何も頑張らずとも自分も周りも自然と建設的にしか働かない、「本当の健康」の人生を選びたいのだろうか。
ちなみに、セラピーでビジネスにならないとか稼ぐなと言っているわけではない。それはお話していることの意味がまったく違う。
だが、対人支援自体は、「ビジネス目的」でおこなわれてしまったら(現代は上記したようにそれにすら自分自身で気付けない人も多いことが問題なのだが)、それは対人支援にはならないと言っているだけだ。
本当の真髄を究めた対人支援で(結果的に)自分も周りもどんどん栄えている人もいる。
それに、本当にそのホスピタリティから生まれる根源的な技術技能で「対人支援」をしている人は、自然と、セラピーでも、セラピー以外でも、境なく、生活に不自由するということをしない、身も心も充分な豊かな人生になってゆくのだ。
逆に言えば、これほど豊かになる生業はない。
それが(実は逆に)わからない、わかりたくない人、そこに気付きたくない自身の内側の枷(問題)を抱えている人が、結局、「対症療法」、つまり、目先の表面的な「目に見えるくらいに“小さな”(=顕在意識はこれこそを大きいと認識する)」変化、目先の利益にもなる方向を求め始める。
※ちなみに、私は「根本的療法」と「対症療法」を分別しているわけでも、対症療法が悪いと言っているわけでもありません。
「対症療法」が必要なときももちろんありますし、私もセラピストとしてセッションの中であらゆる対症療法を併用します。
しかし、表面より一枚、見えない部分へ行ったところや根本部分を”犠牲にした”対症療法、つまり”対症療法を目的とした対症療法”は、私は「対症療法ですらない」と思っています。しかし、はっきり言って現代日本の医療やスピリチュアルや福祉などはどんどんそれを採用しています(記事内で書いたように、本人たちですらそれに気付かずに)。
根本的なところを見据えた「真の心身の健康」を目的とした、つまり対症療法をしてもそのために非建設的なものを植え付けない、対症療法自体も根本療法を更に加速させるような方法の対症療法も、本当ならごまんとあるのです。
そんなところを、セラピスト仲間であり私のコミュニティの監事さんでもある江澤宏之先生との対談形式の講演動画がこちらです。
(1時間の講演が3分割されています。)
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